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193〔1〕

執筆:七賀

 

 

 

記憶に蓋をするのは得意だった。人の心を読む力はクラスで一番下手だけど、自分の心は自分が一番上手にコントロールできる……
今まではそう思っていた。だけどそれは大きな思い違いだったのかもしれない。
育海(いくみ)は校舎内の窓から黒く畝った海を眺めた。犬のように荒い呼吸を繰り返し、近くの壁にもたれかかる。無我夢中で走って、走って、気がついたら校舎の端っこまで来ていた。時間だけが無情にも経過する。
ヤヒロさん……
見てはいけないものを見てしまった。どうせこれからメディカルチェックで顔を合わせることになるのに……いや、それよりもナナが……
医務室での出来事を想見する。男に抱かれている、艶かしい表情の彼が脳裏に焼き付いていた。嫌悪や失望が露わに浮いているのに、今までにない高揚を覚えている。心の中を泳ぎ、掻き乱す。
「は……っ」
熱い。先程の彼の姿を思い出したら、何故か身体が熱くなった。内腿が疼いて震える。この感覚はつい最近覚えたものだ。
男にだけ訪れる最初の入り口。精通。授業でも習ったけど、実際に感じて体験するまでは馬鹿馬鹿しいと心の底で笑っていた。性の強さなんてまるで知らなかったからだ。でも、今なら分かる。時々自分ではコントロールできなくなって、治療や薬に頼っている子達のことを……
周りに比べると自分はかなり遅かった方で、初めてそれを迎えた時はショックのあまり授業を休んでしまった。
熱を覚えるのは朝目覚めた時だったり、夜中にむずむずする時だったり。後は友達がどこかから貰ってきた、ちょっとエッチな本を読んだ時。
それと同じ感覚を、何故か今、感じている。
知らない男の人と交わっていたヤヒロさんを思い出して熱くなっている。何故なのか分からなくて怖かった。
こんな状態で医務室には戻れないし、何よりナナのことが心配だ。育海は壁をつたいながら、浮いてしまいそうな足を地につける。よろめきながらも何とか納屋へ向かった。
弱った姿を見てからだいぶ時間が経っている。早く入りたいけど、最悪の事態を目の当たりにするのも怖くて、扉を開けることを躊躇してしまった。伸ばした手を何度か握ったり開いたり繰り返した……そのとき、にゃあ、と泣く猫の高い声が聞こえた。
「ナナ……!」
その声を聞いたら反射的に扉を押し開けていた。中にいたのは、尻尾を揺らして誰かに頭を撫でられているナナ。そしてナナを撫でていたのは、やっぱり彼だった。
……ヤヒロ、さん」
白衣を纏い、いつも通り薄い笑みを浮かべるヤヒロさんがそこにいた。まさかここにいるとは思わなくて、一瞬頭が真っ白になる。
けどナナが甘えた声を出して彼に擦り寄っているから、ちょっとずつ緊張が解けていった。
「ナナが……さっきまで、すごい具合悪そうで」
「うん。俺が来た時も熱っぽくてぐったりしてたから、水を上げてタオルで冷やしてたんだ。この納屋って日中はかなり気温が上がるから、もしかしたら熱中症になってたのかもしれない」
ヤヒロさんは近くに落ちていたタオルを拾い上げる。ナナはもう一回元気に鳴くと、育海の横を通り抜けて納屋から出て行った。
「良かった……
「まだ子猫だから小さなことでも弱りやすい。熱中症には気を付けないといけないね。俺は獣医じゃないから猫に点滴はできないし」
そうだ。彼の言うとおり、ナナのことをもっと気にかけてやるべきだった。この島には動物病院なんて無いし、せめて健康状態を把握していなければいけない。育海が気付くよりずっと前から具合が悪かった可能性もある。
「まぁしょうがないよ。弱っている姿を隠そうとする本能があるから」
「あ……ありがとうございます。それじゃ俺、これで……
ここへ来てから一度もヤヒロさんと目を合わせていなかった。心の中ではずっとさっきの光景が燻っている。ナナが無事でとりあえず安心したし、彼と二人で過ごすのも気まずい。頭だけ下げて踵を返したけど、その前に扉が閉まる音がした。
さっきまで隣にいたのに、ヤヒロさんが後ろの扉に手をついている。
足音も立てない敏捷性が猫っぽいな、なんて呑気に考えてしまう。実際はそんな余裕なんてないのに。
「ナナは今回は助かったけど、今後また同じようなことがあるかもしれない。その時は慌てず、騒がず、最期を見届けてあげるんだよ」
ヤヒロさんの瞳がこちらに向く。ぞっとするほど綺麗な瞳だった。
ヤヒロさんの目は他のどの大人とも違う気がする。
「でも……でもやっぱり、生きててほしい。俺と同じで独りだし……助けてあげたいんです」
「育海君は優しいね。でも人なんて皆独りだから、同情する必要は無いよ」
どれだけの人に囲まれても、死ぬ時は独り。信じれば裏切られて、縋りつけば捨てられる。そう優しく諭してきた。
「友達がひとりもいないことを孤独だと思ってるなら、死ぬ間際なんて大変だよ。どう足掻いても逃げられない、純粋な孤独がやってくる」
不思議と……もう、気まずさのようなものはなかった。
ただ目を奪われ、彼に押し倒された。馬乗りにされて、頭を撫でられて、衣服を剥ぎ取られて。まるで映画の一場面でも見ているかのように、彼の動作の一々を見ていた。

ヤヒロさんはやっぱり綺麗だった。
医務室で先生の顔をするヤヒロさんと、今、自分の性器をむしゃぶるヤヒロさんはまったくの別人。しかし通ずる魅力。惹き込まれる魔力。
「君は猫みたいだと思ってたけど……本当は猫になりたいんだろうね。俺と同じ」
ヤヒロさんはうっとりと目を細める。たまに先端に当たる吐息がとけてしまいそうなほど熱を持っていて、思わず何度も声を上げた。自分でも聞いたことのない高い声。それこそ猫のように鳴いた。
猫ほど人間界で上手く生きられる動物はいないかもしれない。自由で奔放で、それでいて愛される。自分もああなりたい。優しく撫でられる温もりを知ってから一際強く願うようになってしまった。
「ヤヒロさん……いつもこういう事をしてるんですか?さっき、医務室でやってたような事を……何度も」
自分でもあまり触れない部分に彼の舌が這う。窪みの奥が不意に緩んでしまった時、両脚を掴まれた。ずぷずぷと、彼の赤い性器が中へ入っていく様を眺める。激しい痛みと不快感、暗い喜びが混ざり合って涙が流れた。今まで知らなかった感覚と感情を同時に与えられ、やわな理性は簡単に消し飛んでしまった。奥を突き上げられる度に何かが壊れる。痛いとか恥ずかしいとか、それ以上に気持ち良いとか。皆から慕われるヤヒロさんを、今だけは独り占めしているとか。考えるだけでつま先が痺れた。
高揚感に酔いしれている。その時に気付いた。気持ちが良いんじゃない。気分が良いんだ。
でもそんな驕りを戒めるように、彼の指が首に絡みつく。最初は何も感じなかったけど、少しずつ力が込められる。絞められていると分かった時は既に遅く、掠れた声しか出なかった。
「この島で大人しくしていれば可愛がってもらえるよ。その代わり自由は決して手に入らない。君が解放されるには死ぬしかない。……手伝ってあげようか?」
一本、また一本と指に力が入る度、何故か後ろの穴も締まっていく。
死ぬ……のか。苦しくて彼の手に爪を立てるけど、未だ死の実感がない。恐怖と痛みは快感を引き連れてくる。彼が向けるどの感情も嬉しいだなんて、自分は本当に狂ってると思った。
できればナナはこれからも元気でいてほしい。そんなことを考えて手の力を抜いた。今度こそ気を失うと思ったけど、同じタイミングで首を絞める手が離れた。
「なーんてね。君も君の友達も、飼い猫でいる方が幸せだ。少なくとも、今はまだ……
激しく咳き込み、吸い込んだ息をまた奪われる。首を絞める手は容赦がなかったけど、瞳は怖いぐらい優しかった。
きっとヤヒロさんにとっては全てが戯れで、関わる誰もが猫なんだろう。そして自身も猫になる。馬鹿みたいに腰を振って、刹那的に心を満たす。
怖かった。ぶるっと身体が震えた瞬間、連動するように射精した。
「あ……っ、あっ、ヤヒロさ……っ」
恐怖は快感と同じ作用を引き起こすようだ。止まらない精液が腹と、ヤヒロさんの服を汚していく。もう罪悪感すらない。この一瞬を味わう為に生まれてきたんじゃないかと思ってしまった。

どうせ大人になったら島を出て行かなければいけない。その先の未来も保証されず、知らない世界へ飛び込むことになる。ならそれまでの間、自分は彼の傍にいたい。乱暴にされてもいいから、最後は優しく撫でてくれる彼と一緒にいたかった。