笑いながら目を擦る。笠置先生は強ばった表情のあと、息苦しいほど強い力で抱き締めてきた。
「ウッグ……せんせえ、くるし……っ」
首が締まるから思わずもがく。けど彼の力は一向に緩まない。
やばい、落ちそうだ。気が遠のく……。
顔面蒼白で彼の腕を(爪を立てて)掴んでると、弱々しい声が聞こえてきた。
「無理して笑わなくていい」
いつも明るい彼とは思えない、か細い声。それを聞いたらまた熱いものが込み上げて、目元が熱くなって、顔面神経痛みたいな違和感を覚えた。前から不思議なんだけど、何で……泣きそうになると、顔から下が痙攣して、痛くなるんだろ。
そんな全然関係ないことを考えてしまうから、可笑しくてまた笑ってしまう。笠置先生はそれを強がりだと勘違いしたようで、頬をつねってきた。
「痛い痛い!」
「さっきの……名前、確か山瀬だよな? 何されたんだ?」
「いや……全然。生徒会は皆ホモだろって言われてさ。あながち間違いでもないから、あんまり強く言い返せなくて」
笑わないように心掛けたものの、どうしても口元は笑ってしまう。心配かけたくないから余計だ。彼を怒らせても構わない。落ち込んだ姿を見せて困らせる方がずっと嫌だ。
好きだから。……その想いが彼にもっと伝わればいいのに。言葉はあまり役に立たなくて、むしろ火花を散らす。
「多分。……生徒会に居ると、お前はこれからも嫌な思いをする。普段大人しくしてるだけで、同性愛者を嫌ってる奴らは学校にたくさんいるから」
「うん」
「生徒会を抑制しようなんて悠長なことは言ってられないな。実際、すぐに何とかできるもんでもない。俺としてはお前の安全が一番だ。だから籠原、お前は生徒会を抜けろ」
予想外の言葉を投げ掛けられ、思わず彼を見返した。
「やっぱり嫌か? 内申の方が大事か」
「いやっ……内申だけじゃないけど……! 無理ですよ。そんなこと……急に言われても」
膝の絆創膏に触れた。別に真っ向から反論しているわけじゃなくて、自分でもどうしたらいいのか分からないでいた。
生徒会の活動にはうんざりしている、それは確かだ。でも何とかしたいという気持ちが強くある。壇上から下りるという選択肢は自分の中には存在しなかった。
さっきのように標的になる危険はあるが、いきなり外野に飛ばされるのも納得がいかない。謎のプライドが渦巻いている。
「俺は大丈夫です。生徒会はやめない。だってまだ何にもできてない……笠置先生との約束も果たせないままだし」
「俺との約束より自分の身の安全を考えろ。恋愛よりもずっと大事なことだ。俺は自分を粗末に扱う奴を好きになる自信はないぞ」
「えぇ! そんなの狡いです!」
「何も狡くない!」
子どもみたいな口論を繰り広げ、互いに膠着状態となる。でも何の喧嘩なのかも分からず、ため息が出た。
「先生が好きです。でも、生徒会の奴らも……嫌いじゃないんです」
ようやく絞り出した本音の、説得力のなさ。これではさらに呆れられるはずだ。怒声が返ってくるのも覚悟したが、彼は自分の腕を引っ張って校舎へ戻り始めた。歩幅が広く、ついていくのが精一杯だ。
「笠置先生~……怒らないでくださいよ」
「まだ怒ってるように見える? 怒ってないよ。時間の無駄だと思っただけ」
「怒ってんじゃないスか!」
さっさと校内へ戻り、人気のない階段下へ行く。笠置先生は両腕を組んだまま少しだけ屈んだ。
その拍子に、普段は隠れてるシャツの下が見えた。遠目で見るよりずっと綺麗な肌と、浮かび上がった鎖骨。何とも言えない色気を感じて心臓が跳ねる。
あぁ……触りたい。
その願望が脳から身体に伝わってしまったのか、無意識に右手が伸びていた。もっとも簡単に掴まれ、逆に引き寄せられてしまったが。
「籠原。お前の辞書に反省の二文字はないのか?」
「俺の辞書には前進の二文字しかありません」
「どうしようもない奴だな」
大きなため息をつき、先生は額に手を当てる。
「そもそも俺なんかの何が良いんだか。……籠原の周りで恋愛対象になる人は他にいないのか?」
「いません。友達は友達としてしか見ることできないし。あとは父と兄しかいません」
「後者は絶対やめろよ……。とにかく、毎日相談には乗ってやる。だから危ない真似だけはしないこと」
先生はポケットから1個入りの飴を取り出すと、俺の口の中に放り入れた。嬉しいことに俺の好きなサイダー味だ。
飴を舐める俺に向かって、彼は困り顔で肩を落とす。
「思春期の男子ってのは大変だなぁ……」
「先生も、先生に惚れる時期なかったんですか?」
「先生はないよ。先生だからな」
よく分からない回答を受けた。何か言おうと思ったけど、口の中の飴が邪魔で言う気が失せる。まぁいいや、と諦めた。
「籠原。明日も来いよ」
指先で額を弾かれる。先生は少しだけ微笑むと、来た道を戻って行ってしまった。
結局何も進展してない。けど不思議と虚しい気分でもなかった。シュワシュワと弾けるサイダーの飴が、しめっぽい想いも取り去ってくれたのかもしれない。
……翌日。
まだ太陽も昇りきってない早朝に、全力でアラーム音を響かせる時計。まだ頭半分夢の国に置いてきているが、何とか布団から這いずり出て時計を手に取った。
今日も同じ投稿日だ。千草はハンガーにかけている制服に着替え、顔を洗う。それから買い置きしている栄養バランスゼリーを片手に家を出た。
玄関に靴があったので父が居たのかもしれないが、昨夜は会ってない。きっと夜更けに帰ってきて即部屋で寝たのだろう。
父と二人で暮らす生活は、ぬるくなったスープのようだ。冷めてるからこそ敏感に感じる味もある。毎晩遅くまで外で何をしているのか、気になって探っていた時期もあった。しかし知ったら終わりだ。特に何をするでもなく、またいつもの生活に戻った。
兄は家を出て行って、自分の力で生きている。千草もそのつもりだ。大学は費用がかかるが、今からバイトでも何でもして、少しでも資金を貯めたい。父はきっと黙ってお金を出してくれるだろうけど、何でもしてもらうだけの子どもだと思われたくなかった。
千草が通っているのも名門高校だが、兄はその更に上を行くエリート校に通っていた。自分は兄よりも出来が悪い。父はそれを十二分に分かっている。分かっているから、多少自由にやっても何も言ってこないのだ。
「千草ー、おはよ!」
「おはよ、晶」
学校に到着し、上履きに履き替えていると晶が元気にやってきた。周りに生徒はひとりもいない。こんな朝早くに来ているのは自分達や、限られた生徒だけ。その理由は朝の全校集会にある。三ヶ月に一回、学校内の報告事項を生徒会から伝える催しがある。その日は自分達は早くに登校し、集合場所の体育館を掃除したりしないといけない。非常にめんどくさいが、これは一、二年生の役割だ。しかし一年生は生徒会の活動に積極的でない者が多く、サボることもしばしばある。なので駆り出されるのは専ら二年生が中心だ。サボった一年達は全員記録してるし、カウント数によっては来年度は外れてもらう可能性もある。来年から頑張ろうという心意気は、ウチの生徒会では歓迎できない。俺ではなく、会長が厳しいのだ。
晶と一緒に壇上の設備を確かめ、放送委員の生徒と音響の確認をする。早くも生徒達が体育館の中へ流れ込んできた。生徒会の唯一の特権は、集会さえ始まってしまえばHRにも参加せず、裏方でのんびり待っていられることだろう。
校長先生や学年主任のスピーチを聞き流し、暗幕の影から生徒達の列を眺めた。
「なー千草、お前最近ちょっと変わったよな」
「ん? どこが?」
晶が楽しそうに隣に並ぶ。
「声が前より大きくなった」
「どうでもい……」
「あと、何かいつも浮いてるぞ。あ、悪い意味じゃなくて、ふわふわしてる。すごい平和って感じ」
何が言いたいのか1ミリも分からない。晶は日本語を勉強した方が良いと思う。
でも、可笑しくて笑ってしまった。
「お、それそれ。お前さ、笑顔が増えたよな」
「そうかね」
「そう。……あ、会長だ!」
晶が前のめりになる。つられて前へ進んでしまった。壇上には、ひとりの男子生徒がマイクの向きを確かめている。
横顔や佇まいは凛としているけど、小柄で抽象的な容姿の少年。
「皆さん、おはようございます」
彼が挨拶をした途端、生徒達から歓声が上がる。まるでアイドルのライブ会場だ。
「見ろよ、千草。スタンディングしてる奴らもいる。やっぱ会長は人気だなぁ」
珍しく晶も苦笑しているが、実際その通り。生徒会長は他の生徒とは一線を画している。良い意味でも悪い意味でも、一般生徒とは扱いが違う。学校のアイドル的存在で、彼の為のファンクラブもある。俺達はよく知らないが、三年の間では彼を取り巻く派閥と反対派ができてるらしい。……あくまで噂だけど。
彼が一言喋れば生徒達は黄色い声を上げる。まるで宗教みたいだ。なんて、会長管轄の生徒会に所属している自分達が一番の信者だと思われそう。内心げんなりした。
「千草、会長にカップル撲滅運動のこと話すんだろ? 今日なんかちょうど良いんじゃね?」
「物騒なタイトルつけんなよ。でも、そうだな。できるだけ穏便に伝えたい。集会が終わったら突撃するか」
「おう、応援してるぜ!」
晶はどこか楽しそうだ。他人事だからだな。
けど彼の言う通り今日が接触しやすいと思う。会長は教室へ行っても居ないことがよくあって、普段どこで過ごしてるのかよく分からないんだ。
暗幕に身を潜め、早く集会が終わることを願った。
何も自分が祈らずとも、集会は段取りよく終了した。
大勢の生徒が教室へ戻っていく中、千草はステージの端で佇んでいる生徒に近付いた。
両隣にはまた別の男子生徒が二人付き添っている。三年生を表す青の上履き。清潔感のある白シャツ。
「あの……」
「ん? ……あ、千草くん!」
声を掛けると、彼は満面の笑みを浮かべて駆け寄ってきた。自分よりも歳上とは思えない、童顔の少年。しかし彼こそがゲイカップルを量産している張本人。生徒会の会長。
「おはようございます、綿貫会長」
「おはよう。久しぶりだね、元気だった?」