429と3510③

執筆:八束さん

 

 

 

 誰にも懐かなかった犬が自分にだけ懐くとか。部活の鬼顧問に自分だけ怒られたことがなかったとか。バス停でちょっと立ち話をしただけのおばあさんから形見の品を貰いそうになるとか……
 尊くんは優しくて、思いやりがあって、皆から好かれる人柄です……
 小学校の通信簿には、毎年必ずそのように書かれた。
 尊くんにだけなら話せる……尊くんといると落ち着く……
 そう言われて、悪い気はしなかった。誰だってそうだろう。嫌な奴と思われるよりは、いい奴と思われた方が嬉しい。
 でもそれが徐々に、息苦しくなり始めた。
 大学のサークル仲間と飲みに行こうという話になったとき、その場にいた全員が無言のうちに、あいつだけは誘いたくない、と思っている奴がいることを共有していた。だから尊も「別に(あいつは誘わなくて)いいんじゃない」と言ったら、たいそう驚かれた。「意外、てっきり尊くん、仲いいのかと思ってたから……」「尊くんでもそういうこと言うんだね……
 どいつもこいつも、勝手なイメージを押しつけて。
 勝手に期待して、それで勝手に失望するんだ。
 でも一番嫌なのは、そういう皆のイメージどおりに振る舞ってしまう自分自身のことだ。嫌われたくない。そのために取った行動で、『自分』が『自分』に、嫌われていく。ひとに嫌われて破滅するのと、自分で自分のことが嫌いになって破滅するのと、どっちが残酷だろうと考える。答えは出ない。

 好かれているなという自覚はあった。好かれないよりは、好かれた方が、仕事はやりやすくていい。評判が悪くて何回も担当を変えさせられていたひともいたけど、尊の時給は順調に上がっていった。
 純粋で真っ直ぐな瞳を、初めは普通に好ましいと思っていた。けれど時間が経つごとに、どうして、という思いが強くなる。どうしてそんなに信じられるんだ。どうして何も疑いもなく全体重をかけられるんだ。どうして俺なんかの。どうして。一体どこが……
 戸惑いは恐怖に、そして最終的には怒りへと変わっていった。
 どうしてそんな風に分かりやすく『好き』とアピールするんだ、どうしてそんな些細なことで喜べるんだ、どうして好きになんてなりやがって、気安く近づいてくるな、一体誰の許しを得て好きになった、何も知らないくせに、気持ち悪い、都合のいいところばかりを見て勝手に吐露される『好き』には反吐が出る。気持ち悪い、気持ち悪い、気持ち悪い……
 たまたま忘れ物を取りに戻ったとき、彼が自分の名前を呼びながらオナニーしていた姿を見てしまった。椅子にしがみつくような変な体勢……それが自分の座っていた椅子だと気づいたとき……。ぞっとして、震えが止まらなかった。
 気持ち悪い……! でも一番気持ち悪いのは、彼をそんな風に変えてしまった自分自身だ。

「壊れたいって顔してる」
 同じサークルで同学年の八尋に言われたとき、
「どういう意味だよ」
 何とかそう返したものの、核心を突いた言葉に、どきりとした。
 そう、壊れたかった。何もかも。
 自分は、ひび割れた部分を何度も何度も修復してつなぎ合わせてかろうじて形を保っている陶器のようなもので、あとちょっとの刺激さえあれば、簡単にバラバラになることができる自覚があった。でもそのちょっとの刺激を、どうやったら得られるのか分からなかった。
 八尋と一緒に大学から帰っているとき、人波の中に偶然、彼の姿を見つけてしまった。
 思わず縫い止められたように立ち止まってしまったその瞬間を、八尋は見逃さなかった。
「彼がその、君に夢を見てうざったいくらいの愛情をぶつけてくる生徒くん?」
 答えるより先に、腕をつかまれていた。
「現実を見せてあげようか」
 彼が目撃『してくれる』かどうかは賭けだった。そもそも別の誰かに見つかって、厄介なことになる可能性も考えられた。でもひとたび唇を合わせると、思考は墨汁を吸い込む半紙みたいにあっという間に真っ黒になっていった。
……行ったみたい」
 八尋に胸を押されて初めて気づく。すっかり準備が整った状態で食らわされた『待て』に、思わず恥も外聞もなく八尋に縋りついてしまったけれど、「それをするのは俺の役割じゃないからさ」と、さりげにかわされてしまった。尊が乱れた服を整えている間に八尋は尻ポケットから煙草を取り出し、火をつけていた。くねくねとうねりながら上っていく煙を、何故か呆然と見つめてしまった。

「うまくいった?」
 彼にめちゃくちゃにされた翌日、八尋に声をかけられた。そのタイミングのよさに、こいつの底知れなさを感じてしまう。答えることができなかった。でもそれが何よりの答えになってしまうような気がした。案の定彼は、すべて悟った風に、ふっと笑って言った。
「自分で自分のことを壊すのはなかなか難しいだろ」
「だから何の話だよ」
「自分で自分のことを傷つけようと思っても無意識のうちに手加減するようにできてるからね、人間ってのは。だから壊れたいなら、誰かに壊してもらうに限る。そのために先に壊してやるんだよ。そうしたら相手はためらいなく君のことを壊せるだろ?」
 たぶん……
 他のひとが聞いてもまったく理解不能な八尋の言葉を、理解できてしまう自分が嫌だった。
「これあげる」
 と、八尋は机の上に新品のDVDディスクを置いた。
「どうして」
「生協で買ったんだけど、RRW間違っちゃったから。好きに使って」