執筆:八束さん
「これっぽっちもない願望でも、果たして芽生えさせることができるのか。友情を恋に変えることができるのか。どこまでの禁忌なら、生理的嫌悪感なら、踏み越えさせることができるのか……そういう実験だったんだ。正しかったんだよ、あの子が感じていた危機感は。抗おうとしたことは。あの子は一線なんて越えたくなかった。全力で友情を守ろうとしていた。好きになっちゃいけない、これは間違いだ、って、思う気持ちは正しかった。思いつめて海へ身投げでもしやしないかと思ったんだけどね。……でもざーんねん。結局、予定していたとおりになってしまった。実験の結果が想定したとおりになったのは喜ばしいけど……でもつまらないね。ほんと……つまらない。しごけば勃つのと同じだよ。ほんと……」
目が合った。
今なら何か……届くんじゃないか。
固く閉ざされた鉄扉にほんの少しの隙間を見つけたような気がしたそのとき……
けれどめずらしく、先に視線を逸らされてしまった。
「自由……? そんなもの、あるわけない。どこに行ったってずっと、ずーっと、死ぬまで監視され続けているとも知らないで」
がしがし、と、頭をかくと先生はベッドから降りた。子どもたちが治療を受ける場所で何てことをしてるんだと、今さらながらの背徳感と羞恥心に襲われる。
キャビネットをあけ、何かガサガサとあさる音。
息を整えてベッドから降りたとき、注射器がバラバラと床に落ちた。拾い上げ、封を切る手は震えている。机の上にアンプルが見える。その薬の……
その薬の効果はとてもよく、知っている。
自社で開発したものだから、とても、よく。その効果も……副作用も。
針の先の震えが収まらないどころか、だんだんひどくなっていく。あれじゃあ刺せない。下手をしたら血管を傷つけてしまうかもしれない。
思わず近づいて、震える手の上に自分の手を重ねていた。やめさせられる、と思ったのか、先生の眉間に皺が寄ったのが分かったから、
「手伝いますよ」
何故か、そう、口走っていた。
先生の手から注射器を受け取る。
さっきまであんなに、肌と肌をふれあわせていたのに……
細い針一本を介している今の方が、何故か、このひとの一番深くまで潜り込めているような気がした。そして同時に、終わりが始まった気配も感じる。
もうこのひとは、自分をここへは呼ばないだろう。
自分はもう、ここへは来られないだろう。
本当でも嘘でも……このひとがあれだけ饒舌に語ったのはきっと……自分がどうでもいい人間だからだ。切り捨てるつもりでいるからだ。
針を抜いた先から、血が流れる。
早く何か押さえるもの……と焦ったけれど、先生は机に突っ伏し、腕をだらんと投げ出したまま動かない。
その様子を見ていると逆に、ガーゼを当てるのが惜しくなった。
医務室を出ると、廊下の先で顔面蒼白で佇んでいる少年がいた。
無視しようと思えばできた。でも何故か……ここに来るのは最後かもしれないと思うと……付き合ってやってもいいか、と鷹揚な気持ちになった。
「診察? 先生に用だった?」
一歩近づくと、彼は一歩後ずさった。けれど出てきた声は逆に、こちらを押し返すほどの勢いがあった。
「ヤヒロさんに何したんだよ!」
「何……」
ああやばいな。見られていたのか。何を見ていたのかなこの子は。クスリを打っていたところか。それともやりまくっていたところか。何を見られていたとしてもやばいな。今は授業の時間だと思っていたから油断していた。まさか来る子がいるなんて。それとも……
それとも先生はもしかしたら、この子が来ることが分かっていて……
彼の手に握られた赤い紙が見えた瞬間、思わず天を仰いでいた。
深く息を吐いたあと、彼の方に向き直って言う。
「大丈夫だよ、俺はもう、二度とここには来ないから」
口に出すと、決意が固まった。
「来られないから」