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5〔七〕

執筆:七賀

 

 

 

 数年後、島の内部は何も変わらなかった。制度もニュースも友人も、面白いぐらい変わってない。初めて自我を持った時から同じ色と景色で動いている。
 
クローゼットからマフラーとコートを取り出し、鏡台の前で身なりを整えた。
 
この日のために十年以上過ごした部屋を整理して、要らないものは全て捨てた。大切なものなんて初めから持ってないけど、格子で囲われた窓の縁には色褪せた紙飛行機が置いてある。何度か持っては置いてを繰り返し、最終的にボストンバッグに入れた。クレハに見つかったら怪訝な顔をされそうだけど、これぐらい持って行っても罰は当たらないだろう。これだって言わば大切な記憶媒体だ。

 
瞬きするたび時間が過ぎていく。二十という数字はとてもちっぽけに思えた。

 
サクヤはバッグを持ち、初めて島の最南端へ向かった。夜明け前の空は白みだし、一日の始まりというよりは世界の終わりを告げてるように見える。
 
二十年も住んでいながら初めて訪れる港湾には小型のクルーザーが停まっていた。操縦者は深いフードを被っていて顔が見えない。声を掛けるべきか迷っていると、見慣れた人物がフロントデッキから身を乗り出した。
「やっと来た! 遅いぞ、サクヤ」
 
同じく厚手のコートを纏ったクレハだ。彼は幼い顔で、とても露骨に不満を零す。
「あと三分待って来なかったら置いてくところだった」
「ふーん。まぁ別に、クレハひとりで行っても構わないけど。俺はそっちで手振って見送ってるよ。テープでも持ってこようか。出航時にやってんの、何かの本で読んだよ」
「駄目に決まってんだろ!
 
声を潜めて口論してるうちにエンジンがかかった。機体が揺れ、どんどん岸から離れていく。黒い水面が波打ち、小さな渦を巻き起こす。それは加速するにつれ見えなくなっていった。
「サクヤが島に残るなら、俺も島に残る。外へ行くなら絶対に一緒についていく。ひとりにはさせないよ」
 
遠ざかる島の輪郭を二人で眺める。サクヤはしばらく口を閉ざし、自身の手を眺めていた。ひとりにさせない、なんて笑わせる。クレハとしてはかっこいい台詞を吐いたつもりだろうが、それはもう数年前に自分が覚悟していたことだ。
 
もっと言えば今回二人で島を出ることができたのはヤヒロの手回しのおかげで、決してクレハの熱意や努力ではない。そう分かってるものの、それをクレハに話す気は微塵もなかった。
 
クレハは何も変わらない。ただ任務に忠実に、サクヤを親友として慕っている。
 
感情を制御されている。それは自分も同じはずだが、何故か日に日に強まる。クレハへ抱く想いは上昇していく。
 
いつか粉々に壊してしまいそうだ。クレハの心臓を飲み込んだ時のように、内に埋め込まれたものを……自分自身の熱で溶かしてしまいそう。
「サクヤ、何か隠してるな」
「何にも隠してない」
「本当に? 俺の目を見て言える?
 
反射的に振り返り、クレハと視線を交えた。
……ヤヒロさんがお土産よろしくって」
「あっ話逸らした! やっぱ絶対何か隠してるだろ!
 
騒ぎ出すクレハを尻目に、ため息をつく。彼が何でこんなに元気なのか分からない。これから遠足に行くとでも思ってるんだろうか。
 
笑えないな。俺達はこれから、とても昏い場所へ行く。波間で弾ける泡沫のように、誰も知らないところで消えていくかもしれないんだ。
 
二十歳は大人。自分達にとって、大人は死を意味している。断崖絶壁に放り込まれ、色を振り撒くだけの生き物にされる。外の人間からすれば、自分達は人知を超えた存在のようだから。
 
でも。バッグに詰めた紙飛行機のように惨めな終わりを迎えたとしても、……隣に彼がいるならそれでもいいか。
 
幸せな終生だ。
「見て、サクヤ」
 
クレハが手摺を掴み、ずっと遠くの空を指さす。果てしない水平線の中心。十字に伸びる眩い光に、幼い日の光景が蘇る。
「ずっとあそこへ行きたいと思ってた。サクヤと一緒にいられますように、って願い事を紙飛行機に書いて飛ばしてた……夢を、昨日見たんだ」
 
彼が指さすそこは、朝陽の顔半分が覗いていた。
 
徐々に照らされるクレハの姿は今までで一番輝いていて、幼い頃の面影はほとんどなくて、右手の傷跡はすっかり薄れていた。
 
記憶も滲んでしまっている。それでもいいから、前へ進もう。
 
いつか全ての記憶と感情を失くしても、今日交わした言葉は自分という人間を最期まで象ってくれる。
 
自分とクレハはひとつの存在だ。
 
だから外の世界で探してみよう。俺達のような人を探すだけじゃなくて、俺達が生きてく意味も一緒に。