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4〔七〕

執筆:七賀

 

 

 

 クレハの傷付けられた右手。肉の断面から僅かに見えるチップ……いや、カプセルが、艶めかしい色で揺れている。誘っているような、催眠術をかける時に使う蝋燭の炎のような揺らめき方だった。不自然なほど断続的に光を放っている。
「俺達は、まだ自分の意志で動くことができる。考えることができる。まだ子どもだから。でも大人になったら、今度こそ感情を失う。知らない国に放り込まれて、ただ仕事をこなすだけの人形になるんだ。だから、これを取り出さないと」
 
鋭利な刃先が宙に浮かぶ。「やめろ!」それが振り下ろされる寸前、また視界が真っ暗になった。
 
野太い鳥の声。頬に当たる草。涼しい潮風。ぬれた下半身。
「あ……
 
草むらに寝転がっているクレハの真上でサクヤは目を覚ました。もう身体は離れているが、気を失っていたようだ。クレハは心配そうにサクヤを抱き締める。
「サクヤ、大丈夫? 急に動かなくなるから……離れていいのか分からなくて」
 
前がじんじんする。入れていたのは自分、入れられていたのはクレハの方なのに、何故か引き攣る感覚。寝惚けた思考を振り切るように首を振った。

 
今までのは夢?
 
あまりにも鮮明で鮮烈だった。手は汗まみれで軽く動悸がしている。しかし目の前のクレハが不思議そうに首を傾げているから、何も無かったふりをして起き上がった。
「サクヤ……何考えてるの?
 
クレハも身体を起こし、こちらを見上げる。その眼差しは、家族に向けるものとも、親友に向けるものとも少し違っていた。
 
得体の知れないものを見る眼だ。
 
心拍数が上がる。規則的なリズムで、化け物が眠っている牢を強く叩く。
「何にも。……心配しないで。俺達、ずっと一緒にいるんだよ」
 
そう言うと、やはり彼は否定も肯定もせずに見つめ返してきた。
 
新しいカプセルを埋め込まれた彼は、昔より幼くて、少しのろくて、自分より素直だ。
 
変わってしまったのだろう。彼も、彼との関係も、俺の立ち位置も。

 
その夜。誰もが寝静まった時間に、サクヤはこっそり部屋を抜け出した。足音を立てないよう、息を殺して緑色に照らされた廊下を抜ける。何度も角を曲がってたどり着いたのは、メディカルチェックを受ける際に必ず訪れる医務室。
 
驚くことに扉の鍵はかかっていなかった。拍子抜けするぐらい簡単に侵入し、普段は興味も無かったキャビネットの中を物色する。
 
大きな鍵付きの箱は、やはり開いていた。小さな保管容器には使い捨て用なのか、メスが四本。そのうちの一本をそっと取り出した。思っていたより軽い。先端は靱やかだが、やはり刃物独特の危険な色を帯びている。
 
クレハはこんなものを自身の手に突き付けたのか。彼の勇気や覚悟も然ることながら、改めてぞっとした。もしかしたら、自分もこれでカプセルを取り出せるかもしれない。そう思ってここに来たが、考えが甘かった。とてもじゃないが、自分にはこれを扱う自信がない。
「何してるの?
 
細部まで観察していた最中、背後から降りかかった声にサクヤは飛び上がった。振り返った先には見覚えのある人物。薄暗い部屋の中で際立つ、白い影が立っていた。
「ヤヒロさん……!
 
迂闊だ。メスに集中してしまい、後ろは全く注意を払っていなかった。まず一番に叱責されると思ったし、重大な罰を与えられるんじゃないかと思って身構える。メスは手放せないでいた。
 
そんな自分を見下ろし、彼は平然と近くの丸椅子に腰掛けた。ポケットから煙草を取り出したものの、「あ、ここ禁煙だった」と呟いて再び仕舞う。そしてこちらに向き直った。
「君は賢い子だから……扉の鍵が開いてるのも、メスが雑に保管されてるのも警戒して引き返すと思った。それでも残るなんて、クレハ君のことがよっぽど心配なんだね」
「クレハって……、何のことですか」
「オトシモノ」
 
ヤヒロさんは何かを取り出して翳した。サイズや形状からしてまた煙草の箱かと思ったが……それはサクヤの携帯だった。
 
クレハと過ごした西の丘で落としてきたものだった。これを彼が持っているということは。嫌な想像が頭を過ぎる。

 
丸椅子を引き摺り、ヤヒロはぎりぎりまでサクヤの目の前へ移動する。そして難なく、彼の手からメスを抜きとった。代わりに持っていた携帯を手渡す。
「お友達が急に変わったら、そりゃ何とかしなきゃって必死になるよね。……いや、君にとってクレハ君はただのお友達じゃないのか。夕方は本当に仲良く遊んでいたもんね」
「な……何なんですか」
 
知ってる。彼は絶対、自分達の秘密を知っている。
 
今日のことだけじゃない。もっと以前、クレハが変わったあの日のこと……引いては自分がしてしまったことまで見抜かれている錯覚を覚えた。
「焦らない方がいいよ。これはアドバイス」
 
息苦しさに胸を押さえる。携帯は氷のように冷たたい。胸元に当たるそれが、今は自身の心臓のようだった。きっとこれの電源が切れたら自分も死ぬ。
 
自分は確かに人で、息をしているけど、どこかに生死を分けるスイッチがある。そしてそれは、知らない誰かの手に握られてしまっている。
「昔のクレハ君に戻ってほしいとしても、自分が置かれてる環境に疑問を持ったとしても…… どうせ君達は二十歳になったらこの島を出る。否応なしに外を知ることになるんだ」
この島の秘密を知らないまま────。ヤヒロさんはメスの輝きを恍惚として眺めた。

「クレハ君と行って、思う存分遊んでおいで。君がしたことは黙っててあげるから」

 
その時の彼の表情、声音をはっきり覚えている。
やっぱり、クレハが大人達に連れて行かれたあの日と全く同じものだった。