執筆:七賀
“日常”は当たり前の顔をして戻ってきた。
騒がしい教室、水平線に沈む夕陽、日々のメディカルチェック、白衣を着た大人達。隣で朗らかに笑う、クレハ。
何も変わってない。変わったのは自分だけだ。この日常風景の中で、サクヤだけが不自然に切り抜かれている。そんな妄想が頭にこびり付いて離れない。
無情に経過する日々が恐ろしい。何事もなく笑うクレハがたまらなく愛しく、そして歯痒い。……ただただ恐ろしい。
「サクヤ、元気ない。……っていうより、何か変わったね」
「変わった。例えば、どんな風に?」
茜空の下、サクヤは毎日クレハを連れ、見晴らしのいい高台に来ていた。荒れ放題の雑草を掻き分け、ようやくひらけた敷地にぽつんと建っているここは秘密基地のような特別感があった。きっと友人達でもこの場所は知らない。誰にも邪魔されずクレハと過ごせる唯一の場所だ。
「例えばー……それとか」
クレハは石段に座っているサクヤの手元を指さした。サクヤは先程から紙飛行機を折ることに集中している。膝の上には赤い紙飛行機が二つ乗っていた。
「紙飛行機、本当に大好きだな。毎日折ってるからすごい数たまってるんじゃない?」
「いや、折ったらまた戻すから。どんなに綺麗にできても、最後は元通りにしてる」
それが折り紙の良いところだ。ただ、何度も折り目のついた紙は摩擦によって破けやすい。慎重に折って、また一枚のよれた紙に戻すのだ。
「クレハ、勝負しようよ。遠くまで飛ばした方が相手に何でも命令できるゲーム」
「えぇ、命令? 何か怖いなぁ」
そう言いながらもクレハは笑って紙飛行機を受け取った。出来栄えに感心して、形をまじまじと眺めている。
「でも紙飛行機で勝負なんて久しぶりだな」
「……うん」
耳鳴りがしている。赤い陽射しで照らされている彼の姿は、全身血塗れで泣いているようだ。
自分の心からも血が吹き出している。
「でも紙飛行機って、元々は戦闘機に見立てた……子どもの戦争ごっこの玩具だから。勝負して、競い合わないと意味がないんだよ」
せえの、と全く同じタイミングで投げた。赤い夕景と同化し、滑空する赤の紙飛行機。上手く風に乗ってると思われたクレハの紙飛行機は海岸部に墜落し、サクヤの紙飛行機は岸を越えて姿を消した。勝敗は一目瞭然だった。クレハは指で丸眼鏡をつくり、残念そうに呟く。
「やっぱり上手いな、サクヤは。昔っから……俺が勝てたことなんてほとんど無かった」
赤い太陽かゆらゆらと揺れている。真っ赤な海は見ていて目が痛い。
紙飛行機でほとんど勝てたことがないのは、クレハではなくサクヤの方だ。
胸が苦しい。自分の知らないクレハが、クレハの知らない自分がここにいることが、どうしようもなく辛かった。
小さな頃からいつも二人で紙飛行機を折って、密かな願いをのせて、あの水平線に向けて投げていたじゃないか。
大切だった想い出は、もう彼の中で黒く塗り替えられてしまっている。紙飛行機に秘めたクレハの願いも最後まで分からないまま。
自分を「好き」と言ってくれたクレハはもういない。海に落ちた紙飛行機のように死んでしまったんだ。
自分ひとりでは到底逆らえない大きな流れがある。
世界はこの海と同じだ。高波が来たら自分達なんて簡単に攫われてしまうから、せめて今だけ。巨大な災害が起きる前に、もう一度繋がりたい。
「サクヤ……!?」
クレハの襟を掴み、茂みの中に押し倒した。その拍子に携帯も転がり落ちたけど、無視して彼の唇を奪った。温度も感触も、確かに以前も感じたものだった。間違いじゃない。目の前にいるのは本当に、本物のクレハだ。
「何を……」
「俺の勝ち。だから動かないで」
自分のズボンを下着ごと引きずり下ろし、クレハの下衣も剥ぎ取ってやった。早くも昂り、ぐずぐずになった前を執拗に擦り合わせる。
何も不自然じゃない。クレハさえおかしくならなければ、どうせこうなる予定だった。あの日の続きができたはずだった。
自分達はずっと昔から見えないところで繋がっていて、気付かないままお互いを想っていた。絶対そうだ。片想いなどではなく、確かに結ばれていた。否定なんてさせない。真実を知ってる人間は、今やこの地上に一人もいないのだから。
クレハの本当の気持ちは自分が丸飲みしてしまった。このまま黙っていれば全て闇に葬られる。昔の彼を奪ったあの大人達と同じやり方で、自分の手も汚そう。
クレハは驚いた様子を見せるも抵抗はしなかった。絡まった衣服が鬱陶しくて、とうとう全て脱いでしまった。場所も弁えず、自身の熱棒を解した彼の後ろに埋めていく。あまりの熱量に気が遠くなりそうだったが、天に昇る気持ちだった。記憶が無くなっても、自分はクレハを好きで居続けるだろう。
……記憶が、無くなっても。
ふと自身の右手が視界の端に映り込む。自分も例外ではなく、得体の知れない機械が身体の内部に埋め込まれている。でも……こんなもの、本当は無くても何も問題ないんじゃないか。だってクレハは一時的とはいえ、チップを取り出しても平気で動き回っていた。命に関わるものじゃないのは確かだ。
クレハの記憶は一部消去……いや、改竄されている。
彼が自ら取り出した内蔵チップはサクヤの胃の中に埋もれ、今は原形を掴めていないかもしれない。代わりに新たなチップがクレハの中で蠢いている。
────この機械が内外的経験を保管する記憶媒体だとしたら、造った人間達の思うままに記憶を塗り替えられてしまう。クレハに限らず、この島にいる子ども達は皆都合のいい実験動物になる。
そんな馬鹿な妄想が止まらない。
きっとあの時にクレハに移された熱のせいだ。
血だまりの中、震えながら抱きついてきた彼が忘れられずにいる。忘れたくないし、なかったことにしたくないのが本音だろう。初めてあんなに求めて貰えたのに、自分の知らないところで誰かに回収されていくのが耐えられない。
この機械の正体が何であろうと、自分はクレハの一番の理解者だ。幼い頃の記憶は作り物なんかじゃない。永遠に彼を好きでいる自信がある。……なんて。
ガリガリ、……ガリガリ、骨に当たる音。肉を削る音、血が跳ねる音が耳殼に届く。
暗幕が降ろされたように、視界は闇に包まれた。
何かが鈍い銀色を放っている。薄暗い世界で、先の尖ったそれだけが視認できた。
メスだ。さっきからずっと、誰かが自分の手を抉っている。
やめろ、と声を掛け、止めようとして手を伸ばした。しかし寸でのところで硬直してしまう。
振り返ったのはクレハだった。見ていて憐れになるほど両眼から大粒の涙を零していた。
「何で……泣いてるの」
「これを取らないと、俺はずっと今のままだ」
彼は血だらけの右手を翳してみせる。その痛々しい姿に思わず目を逸らしたくなったが、ぐっと堪えて向き直った。
「これが……俺達が本来持ってる感情を三分の一以下にまで抑え込むんだ。こんなものを埋め込まれているから、皆自由になれない。今の生活が当たり前で、何も疑問を持たずにこの島の中で暮らしてる。俺も、サクヤともっと一緒にいたい気持ちを……時間をかけて殺されている」