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2〔八〕

執筆:八束さん

 

 

 

次の日、クレハは授業に出なかった。
 先生はクレハの席にちらりと目をやっただけで、特に何も言わなかった。
 何か知らないのか、と、友達に訊かれても、何も言えないのが歯がゆかった。先生を含め大人たちは、まるでクレハがもともといなかったように振る舞った。
 携帯端末でメッセージを送ってみても、返信がない。
 初めは、あのときのことが気まずくて避けられているのかと思った。でも一日、二日と連絡がないと、次第に心配の方が大きくなってきた。クレハの部屋に行っても、ずっと在室状況は不在のまま。
 一体何があったのだろうか。あのとき特に、変わった様子はなかった。変わったこと……といえば……
 キスをした。ただそれだけが、唯一、変わったこと、だ。
 気がつけば誰かがいなくなる、なんてことはよくある、らしい。
 子どもたちは年齢とか、能力とか、適性とか……よく分からないけれどそういったものでグループ分けされていて、サクヤたちの居住する棟にもまだふたつあって、自分の棟だけでもよく分からないのに、他の棟のこととなるとさらによく分からない。だからひとりやふたり、いなくなっていても、へえ、という感じだし、逆に紛れ込んでいたとしても、よっぽど身近にいるひとじゃないと気づかない。今まで、同じ学習クラスからいなくなった子はいないから、そんなのは噂話に過ぎないと思っていたけれど、よりによって、まさか、クレハが……
 衣食住に困らなくて、『外』より進んだ教育を受けられて、メディカルチェックも充実していて、こんな恵まれた(比較したことがないから分からないけど)環境でも、時折妙な気を起こして逃げ出そうとする子は年に数人は出る、らしい。でもここから出る手段は限られている。週に一度の連絡船に紛れ込むか……紙飛行機と同じ運命を辿るか。
 クレハもまさかそんな、『妙な気』を起こしてしまったんだろうか。
 携帯端末でメッセージを送り、あれ、と思う。午前中までは返信はなくとも、ちゃんと送信はできていた。でも今は、送信そのものができなくなってしまっている。
 クレハという存在自体が消されてしまったみたいに。

 まさか。
 もう二度とクレハに会えないのだろうか。
 まさか、と思っていたことが、どんどん現実味を帯びて迫ってくる。
 まさか、あれがクレハと話した最後になってしまうのか。
 あれが最後だと分かっていたら、もっと、もっと、もっと相応しい何かが……
 あったような気もするけれど、何が正解だったのか、よく、分からない。

 授業を終え、自室へ向かう。昨日と何も変わらない風景。当たり前のことが、何だか妙に、気持ち悪い。クレハがいない風景が、当たり前、として皆に認識されているのが気持ち悪い。
 部屋の前に着いたとき、そこに見えた人影に、思わず「あっ」と声を上げるのを止められなかった。
 クレハだった。
「クレ……
 声をかけようとして、でも、すぐに異変に気づいて、今度は詰めものをされたみたいに声が出なくなった。
 見なければよかった。
 ずっと、視線を上に、クレハの顔に固定して、それ以外は見なければよかった。いや、そんな都合のよいこと……
 サクヤの部屋の前に立ち尽くすクレハ。
 だらんと垂らした手の先が、真っ赤に染まっていた。
 そしてその手がふれたらしい、太ももから、膝の下あたりにかけても。
 そうしている間にも、つっ、と、赤い液体が伝っていくのが見えた。赤い……血。
「サクヤ」
 と、クレハの唇が動いた。声になっているのかなっていないのか分からないくらいのか細さ。でも、サクヤには分かった。クレハがそう呟いてくれたことで、サクヤはようやく動き出せた。
 血で染まった左手。そして右手には……どこで手に入れたんだろう、メスを握りしめている。
 まさか自分で……
 でも、一体どうして、こんな、こんなこと……
 さらに視線を下に落として、気づく。埋め込まれていたはずのチップが、血だまりの中に落ちている。それを見た瞬間、目の前の惨状と、原因と、結果と、混線していたものがすうっと一本の線になって理解できた。透明なカプセル型のそれを拾い上げた瞬間、後ろからガバッと抱きつかれた。
「クレハっ?」
「サクヤ……サクヤ……本当にサクヤなんだね。本当に……
 本当に?
 そう訊きたいのはサクヤの方だった。でも反射的に頷いてしまっていた。一体何が、と訊く前に強く抱きしめられた。ここがどこか、今がどんな状況か分かっていないようなクレハの振る舞いに、何とかできるのは自分しかいないのではないかとサクヤは震えた。何とか部屋の中に誘導したが、その間もクレハは抱きついて離れなかった。ふれられた背中が濡れて、冷たい。見えない部分がどうなっているのか、確認するのは怖かった。
 向かい合わせになると、クレハはますます強く抱きしめてきた。その強さに反比例するように、クレハのチップを握った手には力が入らなくなっていく。いけない。落としてしまう。落として、うっかり踏み潰して、粉々にしてしまう。駄目だ、大事なものなのに。ここで暮らしていくのに必要なものなのに。けれど、ぶるぶると震えが止まらない。てのひらにあるのは数億円の宝石であるような気もするし、孵化したばかりの蛆虫であるような気もしてくる。どちらにしたってもうこれ以上、サクヤが受け持つことはできない……
 そう思った瞬間、クレハが顔を近づけてきた。暴力的なキスだった。身体の中で、心の中で、荒れ狂っているものをそのままぶつけたみたいなキスだった。突然のことで目を閉じることができなかった。視界の片隅で、ちらちら揺れる赤。あのときのキスがこんな形で上書きされたことに、少なからずショックを受けた。でもそんな戸惑いもすぐに押し流された。
 あとは落ちていくだけだ、という予感が、始まる前からしていた。
 それが分かりながらも舌を差し入れて、クレハの身体をかき抱いた。
「好き、サクヤ、好き、本当に好き、離れたくない、嘘じゃなかった、この気持ちは嘘じゃなかった、サクヤのことが好きな気持ちは嘘じゃなかった……
 クレハは繰り返し、そういったことをサクヤの耳元で呟き続けた。本気でサクヤに伝えようとしているのか、それとも自分自身に言い聞かせようとしているのかは分からなかった。クレハの言葉に、猛烈にそうだ、と思う瞬間もあれば、ガラス一枚隔てた向こう側の出来事であるように思える瞬間もあった。
 血を、
 止めなくてはいけない。
 今しなくてはいけないことは、クレハを落ち着かせて、傷の手当てをして、ちゃんとした大人を呼ぶことだ。そのはずなのに、唇を合わせて、肌をまさぐって、互いの温度を同じにして、溶け合おうとしている。この行為が、燃え上がる、と表現されるのには違和感があった。熱交換するみたいに、どんどん、冷え固まっていっているような感じすらした。絶頂を迎える瞬間に、凍え、固まる。それはそれで素敵かもしれない。
 求められるがままに、下半身を擦り合わせる。ぐちゃぐちゃと溢れるそれも、赤い色であるかのように錯覚する。部屋中に生臭いにおいが漂う。何か、生み出していっているようでもあり、壊していっているようでもある。何かおかしい、という思いが芽生えるたび、それを摘み取るようにくちづけられる。
 求められている……というより、逃げているんじゃないか。
 次第にそんな思いが頭をもたげ始めた。
 だからこんなに息を荒くしているんじゃないか。だからこんなに何かをふりほどくように喘いでいるんじゃないか。
『早くしないと花火が終わっちゃう』……クレハにそう急かされて、手を引っ張られて走らされたときの記憶がふいに甦る。遠い、遠い日の記憶。理由はすっかり忘れてしまったけれど、夏祭りなんて行くもんかと意地を張って部屋の中に閉じこもっていた。そこにやって来たのがクレハだった。そんなに強い力でもなかったのにふりほどけなかった。花火の鮮やかな色に照らされるクレハの横顔を見ていたら、ふりほどけなかった。丁度会場に着いた頃に花火は終わってしまったけれど、もう十分、見た気になった。「あー終わっちゃった」とクレハが言って手を離したときが、一番、本当の、終わりだった。
 墜落するように、絶頂した。
 閉じたまぶたの裏に映ったのは、赤でもなく白でもなく、ただ、花火がすべて消えたときのような夜空の色。
 硬直したてのひらに、まだクレハのチップがあったのが奇跡だった。
 そこから先は、まるで紙芝居の中に入れられたみたいに、不連続で、平面的で、音がなくて、何枚かすっ飛ばされていたとしてもきっと分からなかった。大人たちがやって来て、クレハはあっという間に連れ去られた。考える間を与えないくらいの手際のよさに、逆らうことも理由を問い質すこともできなかった。
「チップは見なかった?」
 そう訊かれ、首を横にふることができた自分を自分で褒めてやりたい。本能が、これだけは渡したくないと訴えていた。
 代わる代わる大人たちがやって来た。いろんなことを訊かれたけれど、その質問に何の意図があるのかよく分からないものだったから、ほとんど記憶に残らなかった。大人たちの中に、ヤヒロさんもいた。いつもと同じようにバイタルデータを取って、採血して、いつもと変わらない表情、声音で、「特に異常はないね」と言った……それだけは妙にはっきり、覚えている。

 

 

 次にクレハに会ったのは、それから一ヶ月以上経ってからのこと。
 何事もなかったかのようにクレハは、「サクヤ!」と駆け寄ってきた。そしておもむろに、包帯を巻いた左手をずい、と突き出してきた。ふれてはいけないと思っていた部分を逆に見せつけられてしまって、咄嗟にどう反応していいか分からなかった。
「見てよ、これ」
 その声の朗らかさに、嫌な予感しかしなかった。
「見て、って……
「美術でさあ、彫刻刀でブスッてやっちゃって」
……どうやったらそんなとこ突き刺すの」
「後ろでふざけてた奴らにぶつかられて、手元が狂ったんだよ。もう本当に死ぬかと思った」
 決して死ぬだなんて思っていないからこそのあっけらかんとした物言いに、眩暈がした。
「痛すぎてしばらく気ぃ失ってたみたいなんだよね。チップも壊れちゃったみたいだから、そこからもう一度埋め込んで縫い合わせて、って、大変だったみたい」
 何事もなかったかのようにクレハは笑った。
 なかったかのように、じゃない。
 クレハの中ではもう、何もなかったこと、になっていた。

 海が太陽を食べている。
 夕焼けが赤いのは、昼に比べて太陽と地上との距離が長くなることで、短い波長の青は散り、長い波長の赤しか、地上のひとの目に届かなくなるから。
 そんな理屈を知っていても、夜に食われる太陽の、断末魔の悲鳴のように思える。
 クレハは相変わらず、サクヤの一番の存在であり続けてくれた。
 でもクレハが言う「好き」の温度は、もうあのときと同じには戻らなかった。それを知っているのが自分だけというのがやるせなかった。
 目を瞑ればいいのか。
 もうそんな子どもっぽいこと、と、クレハは紙飛行機を二度と折らなくなった。
 ポケットから、罅の入ったチップを取り出す。
 いつでも飲み込んでやる、と言わんばかりに、うねっている海面が見える。遠くに視線をやると静止画のようなのに、足元を覗き込むと、波は、護岸を削らんばかりの荒々しさで打ちつけ、白い飛沫を上げていて、母なる、とか、命の、とか、形容される海の、本性がそこに垣間見える。
 腕を振りかぶった。
 でも、それを投げ込むことはできなかった。
 もう一度、ひらいたてのひらに載せたそれを見つめたあと、ひといきに飲み込んだ。
 それなのに何故か閉じた瞼の裏には、暗い海に沈んでいく光景が見える。時折きらきらと基盤を輝かせながら。
 喉、食道、そして……辿っていった先を、指でなぞる。

 ひとつになった。
 誰にも知られることなく。弔うような気持ちで。未来永劫。