執筆:八束さん
島の全周は一キロほど。歩いて十五分もかからない。物心ついた頃から、それが世界のすべて。
島の一番西側の突堤に腰かけ、サクヤはクレハを待った。沈みかけた夕陽を映して、海はきらきらと光っていた。打ち寄せたり押し返したりする波に合わせて脚をぶらぶらさせていると、自分が波を操っているかのように錯覚する。
まん丸だった太陽の下半分ほどが水平線に沈んでしまっても、クレハはやってくる気配がない。風が吹いて、まるでその風に乗ってクレハがやって来たような気がして振り向いたけれど、後方にはサクヤの影が、ただ、長く伸びているだけだった。
何となく、今日はクレハは、来ないような気がした。
手に持っていた紙飛行機を何度か弄んでいるうちに、よれたり手の汗を吸い込んでしまったりして、たぶん、この紙飛行機はそんなに遠くまで飛ばないだろう。どちらがより遠くまで飛ばすことができるか。最近は授業が終わってから夕食までの僅かな自由時間、クレハとそれを競い合うことに夢中だった。
大空に向かって、せえの、で投げる。たいていいつもサクヤの方が負けていた。けれど海面に落ちて、波が都合よく遠くまで運んでくれるのをいいことに、いつも勝敗の結果はうやむやにしていた。
一体いくつの紙飛行機がこの島の周辺を漂っているのだろう。一度もこの海を泳いだことのない自分たちのかわりに、紙飛行機は海を泳ぐ。
「あそこまで行ったら」
と、クレハはよく、水平線の向こうを指して言った。
あそこ、と言ったが、目印になるようなブイや、漂流物や、橋や、向こう岸、なんてものは一切なく、ただ波があるだけで、どこのことを指しているのか分からなかったが、サクヤはいつも、「うん」とクレハの言葉に同調した。クレハが指した水面はゆらゆらとゆらいで、ますます『あそこ』を、不確かなものにさせる。それともクレハは、太陽を指していたのだろうか。だとしたら、
「あそこまで行ったら、願いが叶う」
とクレハは一体どんな気持ちで言ったのだろう。どの程度の重みで。
「願い?」
けれどそのときサクヤは、クレハが一体何を願ったのか、そればかりが気になっていた。
クレハは紙飛行機を折った紙に何か書いていたようだった。けれどそれを見せてと言うことはできなかった。見せてと言ったら見せてくれたのかもしれないけれど、それをわざわざ訊くのは大人げないことのように思われた。クレハはいつだってサクヤのほんの少しだけ前を行っていた。クレハがサクヤに言わない秘密を持っているということは、悲しい。『理解ある友人』として振る舞うことは、悲しい。でもそうやって背伸びして肩を並べる以外に、クレハの傍にいる方法が分からなかった。
昨日もクレハは、何か、願いを込めるように紙飛行機を投げていた。
遅れまいと、慌ててサクヤも投げた。
するとふたつの紙飛行機の先端が空中でぶつかりあって、錐揉み状態になった。
くるくる、くるくる、と、回転しながら落ちていく紙飛行機を、ふたりで無言のまま見つめていた。こんなことは、滅多になかった。
思わず顔を見合わせた瞬間、
キスを、していた。
ほとんど、クレハに塞がれた視界の片隅で、濃紺の水面に浮かぶ白い紙飛行機が見えた。
こっちからした、とも、向こうからされた、とも、言い訳できるような感じの引き合い方だった。
ああやっぱり、と心では思いながら、どうして、というような表情を浮かべてしまった自覚はあった。
キスは一度だけだった。
でもずっと、つながれているような感じがした。
唇と、唇。
ただそれだけなのに、すべて、つながれているような気がした。
あのときはそれが一番、正しい行為のような気がしたのに。
太陽は完全に、海の向こうに隠れてしまった。
クレハは来なかった。
昨日に向かって飛ばすように、出来損ないの紙飛行機を飛ばす。
「……いくじなし」
しかし食堂にもクレハの姿はなかった。
きょろきょろしていると、早く進めよ、とばかりに、トレーで背中を押された。
慌ててトレーに箸と小皿を載せ、券売機に手を翳す。親指と人差し指の間の指間腔……いわゆる水かき……の部分に埋め込まれたチップを機械に読み取らせると、必要な栄養素が計算されたメニューが出てくる。それと、必要な薬も。大抵の子どもが一日最低一回は、何らかの薬を処方されている。ひとによって必要なものは違うらしいから、誰が何を飲んでいるか分からない。正直、自分のこともよく分からない。外に出たときに役に立つもので、ここにいる子どもたちにしか支給されない特別なものらしい。
(げ……っ)
券売機から出て来た赤い紙に、サクヤは眉をひそめた。普通は何種類かの錠剤が出てくるだけなのだけれど、これが出てきたときには注射も受けないといけない。指定時間内に受診しないと、チップからポイントが引かれてしまう。
豚肉のオレンジソースステーとおからサラダともずくスープと玄米ごはんと、白い錠剤ふたつと、緑と白のカプセルひとつと、赤い紙を載せたトレーを手に、三百人以上の子供たちでごった返す食堂を見回してみるけれど、クレハの姿は見えない。
この島には、二十歳以下の子どもたちが暮らしている。外から連れてこられた子もいるみたいだけれど、たいていの子はここで生まれ、ここで育てられる。親は知らない。外は違うみたいだけど、『親』という存在と四六時中、狭い家で一緒に暮らすことを想像すると、息がつまる。『外』はいろいろ大変なんだなと思う。
二十歳になると、皆、外に出て行ってしまう。そのあとどうなったのか、何をしているのかは知らない。帰ってくるひともいない。
二十歳、は、昔のひとが想像していた、真っ平らの地球の果てみたいな、断崖絶壁。
意を決してクレハの部屋に行った。
しかし在室状況を示すランプは消えていた。
諦めて、医務室に向かうことにする。そろそろ時間が近づいていた。廊下の突き当たりに医務室のドア。そのドアがあいて、誰か、出てきたのが見えた。
クレハだった。
呼びかけようとして、でも、クレハは手前の廊下で先に曲がってしまった。
時間がない、というのを言い訳に、クレハの背中を見送った。
カットされたアンプルから、注射器に吸い込まれていく薬液。量を調整するためか、注射器をカンカンと指で弾く音が、静かな室内に響く。注射針の先から零れる水滴。
何年も前から、変わらない光景。
一体日に何回……年に何十回、何百回、こういうことをし続けているんだろう。
「ヤヒロさん」
「ん?」
「さっき、クレハ、来ましたよね」
「ああ……どうして?」
「いや……調子どうなのかな、って、気になって」
注射は嫌いだけど、アルコールを肌に塗られる、すうすうする感覚は好きだ。
「直接訊いたら?」
直接訊けない、というのが分かってて言われているような気がする。
「仲良かったんじゃないの」
確かに一番親しくしていたのはクレハだし、それはきっと、同じ学習クラスの連中とか先生とか、皆知ってる。けれどそれ以上のことも、ヤヒロさんには知られてしまっているような感じがする。
机の上のモニタには、さっきチップから読み取ったばかりのバイタルデータが表示されている。ほとんど英語でよく分からないけど、脈拍とか血圧とかは、その数値から推測することができる。
あの瞬間……
脈拍が不自然に増加しているとか、そんなことももしかしたら知られてしまっているんだろうか。データは嘘をつかないって本当だろうか。
腕に刺さる、針。
じっと見つめていると、何故か、ヤヒロさんはふっと笑った。
「何ですか」
「いや……君も、注射されてるの、見るタイプだったな、って思って。別れるよね、見るタイプと見ないタイプ」
「そうですか、たいてい見るんじゃないですか」
「見られない子の方が多いよ。男の子は特に。血ぃ見ると倒れたり。針が刺さってるところがえぐくて怖いとか。だからめずらしいなと思って」
「見ない方が怖いじゃないですか。何されてるか分からない」
ヤヒロさんがおもむろに顔を上げてこっちを見てきたから、ちゃんと見てください、と、促す。まだ針は腕に刺さったままだ。針が刺さる瞬間はそんなに痛くないのに、薬液が入ってくるとじわじわ痛む。ちゃんと見ていても、本当は何をされているかなんて分からない。
「さっきの……クレハ君もそうだったから。だからああ……何となく君たち似た者同士っていうか……気が合うんだろうな、って思ったんだよ」
そんなところで判断されてもなあ……
でもつい、クレハが注射をされている様子を想像してしまっていた。クレハはきっと、皮膚の下、血管の中まで見えているような目をしているに違いない。
「ヤヒロさんはどうなんですか? 見るタイプですか? 見ないタイプですか?」
訊いては見たものの、彼が注射をされているところは想像できなかった。医者はヤヒロさんひとりだけではないけれど、サクヤはヤヒロさん以外に診てもらったことがかないから、他にどんなひとがいるのか詳しく知らない。知らないけれど、彼は何となく医者らしくないように思う。
この島にいる大人は少ない。ヤヒロさんは数少ない大人。医者、というより、そっちの印象の方が強い。
断崖絶壁の向こう側を知っているひと。
「俺? 俺は見ないね。怖いから。ひとには刺しまくってるけど」
「えーっ、何ですか、それ」
「うまくいけばそれでいいし、失敗したところは見たくないし……。目を瞑ってる間に全部終わっていてほしい」
……何もかも、全部。
注射器を片付けながら、ヤヒロさんが呟いた。もういいよ、と、言われるまで、ぼんやりそれを見つめていた。
ヤヒロさんはこの島の出身らしい、と、噂で聞いたことがある。
でも何となく、真正面からそれを聞いてもはぐらかされそうな感じがした。