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5(八)

執筆:八束さん

 

 

 

 次の日も彼は来てくれた。そしてまた、次の日も。
 ドアがひらく音がすると、ご主人様の帰りを待っていた犬のように駆け寄ってしまう。
 いろんなことを話した。とりとめもないこと。別れたらすぐに忘れてしまうような、些細なこと。でもそのとき共有した空気感や満たされた感じは、決して忘れることはなかった。
 彼は自分のことについてはあまり話さなかった。おそらく社会人なんだろうけど、どこに住んでいるかとか、どんな仕事をしているのかとは、まったく分からなかった。それとなく訊いてみたこともあったけど、そうするとたいてい、それとなくはぐらかされた。
 どうして彼は毎日、自分のもとを訪ねてくれるのか。
 そしてその疑問より、今日も訪れてくれるだろうか、という期待の方が大きくなり始めた頃……
 心底彼と、結ばれたいと思った。

 したい、したい、彼としたい、今すぐ。
 言葉にすれば同じになってしまうのが悲しいけれど、この衝動は、彼と出会う以前のものとはまるで違った。
 少しずつ、少しずつ、距離を詰める。
 キスをしてもおかしくないと、誰が見ても思う距離。それでもいざふれるのには勇気がいった。あ、ふれた、と思って……でもすぐさま身体を後ろに引いてしまった。怖かった。もし、彼の方から離れられてしまったらと思ったら怖くて、自分の方から先に離れた。すると、引いたぶんよりも多く、彼から距離をつめられた。さっきより強く、唇と唇が当たった。押しつけられるのと同時に腰を引き寄せられて、不意打ちの密着に心臓が止まりそうになった。
 キスをしながら服を脱がすとか、ペニスをしごくとか、今まではごく普通にできていたはずのことが、できない。まるで左手と右手を急にバラバラに動かすことのできなくなったピアニストみたいに。
 キスをしている。乳首をさわられている。彼の手が、今、自分の身体のどこにあるのか、全神経を集中させて確認している。左手は腰、右手は脇腹を、太ももを、鼠径部を……
「あっ」
 ふれられるより先に、声が出ていた。恥ずかしくてどうしようもなくなって声が出ていた。それがまた、恥ずかしかった。
……セックス、するの?」
 恥ずかしさが極まって、本当は欲しくてたまらないのにわざと「いらない」と言うような真似をしてしまった。
「したくない?」
「してくれるの?」
「どうして?」
「だって今までそういうの……嫌なのかと思ってた」
「君はしたいんだよね」
「したい」
「どうして?」
……気持ちよくなりたいから」
 言葉にすれば同じになってしまうのが悲しいけれど。
 でも彼は、すべて、分かっているかのように微笑んだ。
 入ってくる。彼が。
 彼の形を知るのと同時に、自分の形も知る。こんな風に挿入されるのは初めてだった。こんな風に、入ってくる、と実感しながら挿入されるのは。
 あたたかい。
 ああ……いつぶりだっけ、こんな風にひとのぬくもりを感じるのは。
 セックス、って……こんなだったんだな……
 彼の背中に腕を回す。
 気持ちいい。
 はっきりと声に出して言った。気持ちいい。気持ちいい、気持ちいい、気持ちいい。彼にふれられているところすべてが、気持ちいい。ふれられると、肯定してもらえたような気がする。よごれ、爛れきった場所、すべて。心さえも。
「満足した?」
 頭上から降ってきた声に、こくんと頷く。
「もう他のひとを引き込んだりしないね?」
 引き込む……? 何を言っているんだろう。彼らは勝手にここにやって来るんじゃないか。ワケが分からなかったけれど、とりあえず頷く。
 自分が感じている充足感を彼にも感じてほしくて手を伸ばす。けれど手はむなしく宙を切った。
 え……
 どうしてだろう。
 彼にふれることができない。
 感覚がどんどん、ぼんやりしていく。ふれられていた場所も、どんどん、あたたかさが失われていく。感覚がなくなっていく。砂のオブジェが崩れていくみたいに、視界に映るものが崩れていく。……いや、崩れていっているのは、自分自身だ。
 彼の手に視界を覆われる。瞼を閉じさせようとするみたいに、上から下へ動くてのひら。駄目だ。駄目だと思うのに、自然と瞼を閉じてしまう。
「もう思い残すことはないよね?」
 その声を聞いたときに、ああ……とすべてを理解した。

「おやすみ、どうか安らかに」

 ひどい。
 ひどいひどい、こんなのひどい。
 ようやく満たされたと思ったのに。飢えから解放されると思ったのに。幸せになりたかったのに。ひどい。こんな仕打ち、あんまりじゃないか。
 そんなに悪いことをしただろうか。ただ、セックスをしていただけじゃないか。セックスをした人間がそのあとどうなったのか知らないけれど。でも、自分だって、こんな風になりたくてなったわけじゃなかったのに。
 どうしてそんな優しい声で、そんな残酷なことを言うんだろう。
 好きだったのに。
 ようやく、依存、なんかじゃない、セックスをすることができたと思ったのに。
 訴えたいのに、もう声も出ない。
 最期の頼みも聞いてくれないの。
 やめて、俺を消さな、