執筆:八束さん
昼も夜もよく分からない。
ただ、訪れてきた相手に股をひらく。セックスが一日の基準。セックスして、終わって、それでまた次のセックスになったら一日が始まる。セックスが終わったら、次のセックスまで、満たされた熱が何とか失われないよう祈りながら過ごす。じわじわと失われていく熱に発狂しそうになる。でも発狂はしない。まだ、していない。発狂する寸前のところで、必ず誰か、やってくる。それはとても都合よく。何故なのかは分からない。でも細かいことを考えるのはやめた。ここはそういうところ。何も考えないで、ただ、受け入れる。
初めのうちは、格好いいなとか、身体締まってるなとか、声がたまらないなとか、どうせならもっといい奴に抱かれたいなとかいろいろ考えていたような気もするけれど、何だかそれももう、どうでもよくなった。
ああ今回は最高だったな、これで終わりたくないな、また抱かれたいなと惜しむときもあったけれど、同じ相手が再び訪れることは二度となかった。二度と。
そういえば自分を抱いた相手はそのあとどうなったのか、よく、知らない。普通に考えたらたぶん、出て行ったんだと思う。イって意識を失って、目が覚めたときにはたいていいなくなっている。何でだよ、ちょっとくらい一緒にいてくれてもいいのに。
本当に、まったく、何の痕跡も残さず、皆、いなくなる。
脱ぎ散らかしていた衣類はもちろん、飛ばしまくっていたはずの液体も、においも、本当に、何もかも。ここにいたと証明できるものは何も、ない。証明できるのは自分の記憶だけ。でもそれもすぐに曖昧になる。繋ぎ止めようと必死になっても、押し流そうとする勢いには逆らえない。だから逆らうことは諦めた。砂のように粉々になって吹き飛ばされていく記憶も、ただ、そういうものかと受け入れる。どうでもいい。
自分って何だっけ。
何だったっけ。
だらんと伸ばしていた指が、ぴくんと引き攣った。それをきっかけに、ぼんやりと、まだらだった思考にも、くしゃっ、と皺が寄ったようになる。
何だったっけ。
どうしてここにいるんだっけ。いつからここへ来て、こんなことをやっているんだっけ。
自分は……誰だ。
名前……名前……名前、って、何だったっけ。
……いや、それもまた、どうでもいい。
セックスをしているときの自分と、セックスをしたいと悶えているときの自分。どうせそれしかないのだから。
耐えられない。
耐えられない、耐えられない、もう駄目、もう無理……
でも、ほら……
ほらまた、誰か、やって来た。
訪問者の躊躇いをのせたかのように、ゆっくりひらくドア。それすらもまどろっこしい。躊躇うことに何の意味がある。どうせ引き返せやしないのに。
『彼』は、今までやって来た奴とは何かが違う、と思った。でも具体的に何がどう違うのか言い表すことはできなかった。気のせいかもしれない。今までの奴だって、そう思っていたかもしれない。でも過ぎ去ってしまえば、皆、ひとまとめに同じになる。たぶん、『彼』だって。
気持ちいいことしよう、と彼の手を取った。
取ったはずだった。
でも気がついたとき、自分の手の中には何もなかった。ふりはらわれた、という感覚もなかった。もう一度試しても同じだった。彼に巧みに、距離を取られてしまう。
「どうして、ねえ、しましょうよ、気持ちいいこと。あなただってそのためにここに来たんでしょう?」
彼は「気持ちいいこと?」と首を傾げた。跪いて彼の股ぐらに顔を近づけた。でも彼は微動だにしなかった。ここまでにぶい相手はめずらしかった。ズボンのジッパーを下ろす。幸い彼は逃げなかった。逃げなかったけれど、特に積極的というわけでもなかった。おかしい。ここまで押したら大抵いつも、相手の方から押し倒してくるものなのに。
まあいいや、と、彼のものにしゃぶりつく。口いっぱいに満たされる。ああ……いいな、やっぱり……これさえあればそれでいい。
言葉数少なく、微動だにしない彼だったけれど、それでもちゃんと反応を示し始めている。ほら、やっぱり、気持ちいいことは皆、好きなんじゃないか。この誘惑に抗えるひとなんていやしないんだ。例外なんてない。ひとりも。
がらんどうの部屋に聞こえるのは、ぴちゃぴちゃと舌を絡める音と、自分の荒い息だけ。
おかしい。何かが。
彼があまりにも静かで。
顔を上げたら、上半身がなくなっているんじゃないか……
そんな馬鹿な妄想をしたとき、彼の指が、髪にふれる感触がした。それはとても、不思議な感触だった。少なくとも、セックスしようとしている奴の手つきじゃなかった。宥め賺すような、壊れものにふれるような……
顔を上げる。
目があった。
彼の目の中に自分がいる。『彼』を見たいと思うのに、見ようと思えば思うほどすり抜けて、彼の中の自分にばかりフォーカスが合ってしまう。彼は一体何者なんだろう。初めて会ったと言われても、一度会ったことがあると言われても、ああそうだ、と納得させられてしまうような、無個性で、なのにどこか引っかかるところのあるような……
思わずしゃぶるのをやめていた。
床に唾液がぽたり、と垂れたタイミングで彼は言った。
「それが気持ちいいこと?」
えっ、と思ったときにはもう、彼の姿はなかった。