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失敗

 

蒸し暑い夜、鈴鳴はあるオフィスビルの前に佇んでいた。
彼は今とても機嫌が良い。その理由はこれから楽しい予定があるからだ。彼はここで恋人の和巳を待っている。お互い中々スケジュールが合わず忙しい日々を送っていたが、今日はようやく暇がとれ、久しぶりのデートをするのだ。
最近買った腕時計で時間を確認する。なんと和巳は、待ち合わせの時間ぴったりにエントランスから出てきた。
「お待たせー、鈴! わざわざ来てくれてありがと!
「ううん。和巳さんこそお仕事お疲れさま!
「ありがとう。じゃあ早速……デート前のおめかしといこうか」
「おめ……?
喜びから一転、和巳の不敵な笑みを見て不安が募る。彼は仕事終わりの為スーツを着ているが、鈴鳴は休日だった為カジュアルな服装だ。ドレスコードが必要な場所でも行くつもりだろうか。
そもそも、今そこまで持ち合わせがないぞ。鈴鳴が不安を感じていると、和巳は彼の手を引いて軽くウィンクした。
「さ、行こう!
場所は変わり、連れられてきたのは全く馴染みのないフォトスタジオ。何か撮りたい写真でもあるのか不思議に思っていると、店員の女性は笑顔で駆け寄ってきた。
「ご予約されてる日永様ですね。どうぞどうぞ!
予約していたことにも驚いたが、一番衝撃を受けたのは彼女が持っていた衣装だ。女物のトップスに長いスカート、それから長いウィッグ。日永という名前を出しながら、彼女が目を輝かせて見ているのは間違いなく自分。たまらなく嫌な予感がして和巳の方を振り返ると、彼は優しい声で囁いた。
「ほら、早く行っておいで。絶対に可愛くなるから 」
( いやいやいや!!
「和巳さん!? ま、まさか俺に女装させる為にここへ連れて来たんですか!?
「うん! でもそんな緊張する必要はないよ。最近は多いらしいんだ」
「俺は嫌です!! 女のカッコなんて冗談じゃない!
「見たいなぁ……俺、鈴の高校の制服姿見れなかったんだ。後、大学の入学式のスーツも見れなかった」
……!!
二十分後、鈴鳴は鏡の前に立ち尽くし、自身の姿に恐怖していた。
正直晴れ姿と女装はまったく関係ないと思ったが、和巳の悲しそうな表情に負けた。
ため息をつきながら背中を丸める。屈辱的で認めたくないが、今の自分は女に見える。声を出さずに黙っていれば大人しめの女子大生のようだ。しかしブラジャーの不快感、足元のスースした感覚、ハイライトの効いたチャコールグレーの髪。大変だ。全てが鬱陶しい。
「お疲れさまでした! すごいお綺麗ですよ!
「綺……っ」
不本意なことこの上ない。可愛らしい笑顔で褒められても素直に喜べなかった。
確実に変質者になった気分だ。この店員の女性は良い人だけど、心の中では大声で笑ってるに違いない。
「うん、メイクもばっちり。きっとお連れの方も喜ばれると思います」
「ありがとう……ございます 」
かろうじてお礼だけは言えた。しかしいい歳した男が二人で来て、片方だけが女装だ。一体どういう関係に見られているのか、気になったが訊けなかった。
和巳さんに悪気がないのは分かる。悪気がないからこそ、こんな鬼の所業を強いるのだ。
「お連れの方は待合室でお待ちですよ」
「え、ええ……

女性の声かけに頷く。本当は今すぐ着替えたかったけど、に見せなくてはここまで耐えた意味がない。
(
でも恥ずかしい…… )
慣れないパンプスを履いて、鈴鳴は和巳が待っている部屋の扉を開けた。彼はスマホで何か見ていたが、こちらに気付くとホッとしたように笑った。
何故だか、その笑顔に安心する。けど全身を見せる勇気がない。だから顔だけ覗かせるような形で、身体は扉の影に隠した。
「お疲れさま。鈴だよね? 首から上は女の子にしか見えないけど」
和巳はどう見ても、吹き出しそうになっている。必死に堪えているようだがバレバレだ。
「ね、……大丈夫だからこっちに来て。笑ったりしないから」
「 いやもうほとんど笑ってるよね!?
「くっ……笑ってない。うん、……うん。大丈夫」
その「大丈夫」は自分に言い聞かせてるように感じたが、諦めて扉を全開した。
……言っとくけど、俺男だからね。気持ち悪くて当たり前!
やや開き直って彼の目の前に立つ。きっと今度こそ笑うと思ったのに、彼は存外無表情で黙り込んでしまった。何だ、何か怖い。
「和巳さん?
「あ、あぁ。ごめんね、似合うとは思ってたけど……ちょっと、綺麗すぎてびっくりしてる」
それは予想外の回答で、鈴鳴も驚いた。しかし彼は目を輝かせてこちらわ凝視している。数秒間、謎の沈黙が通過した。
困った。……どう返すのが正解なんだろう。
「よし! じゃあ軽く散歩しに行こう」
「えぇっ!?
反応に困ったのはほんのわずか。和巳は店員に戻る時間を告げて、鈴鳴の手を引いた。
「ちょっこのカッコで外に行けって言うの!?
「うん、元々そういうコースなんだ。大丈夫だよ、本当に女の子にしか見えないから」
和巳の手を握る力は強い。とても振り解くことはできなかった。しかし、店の中とはわけが違う。不特定多数の人間に見られる。否、知り合いに見られてしまう。
「やだやだ、無理だよ、それだけは無理!
全力で拒否したものの、気付けば店から連れ出されてしまった。商業ビルの六階にあるスタジオで、右手には音楽教室、その少し先には歯科医院がある。人がまったく歩いてないことが救いだ。
「マ、マスク! マスクしていいなら、一緒に行く」
「せっかく可愛くメイクしてもらったのに隠してどうするの。さぁ行こう、お姫様?
優しく頭を撫でられ、誘導される。
(
あぁあぁあ、死ぬ! )
下手したら今日が命日になる。
短い人生だった……。この格好じゃ何をするにしてもリスク()が付きまとう。
でも困ったことに、和巳に優しく微笑まれると黙ってしまう。彼の笑顔は冷静な思考を奪う魔力があった。
長くて鬱陶しい髪を指でつまんだ。居心地の悪さは変わらない。下へ降りるエスカレーターに乗った。手は繋いだままだ。
下の階に到着し、二人で歩き出す。内心は気が気じゃない。
「鈴って名前良いよね。女の子の方がしっくりくるっていうか。あ、そこのクレープ食べよう!
和巳はパッと笑顔に切り替え、苺と生クリームがたっぷり入ったクレープを買ってくれた。そして、それを食べている自分をスマホで何枚も撮影してくる。
「うーん、可愛い可愛い!! 鈴が今まで悪い男に食べられなかったのは奇跡に近いね!!
何だこの羞恥プレイ。
「鈴、口にクリームついてるよ」
「あ……ありがとう」
彼は俺の口元についたクリームをとると、それを自分の口に含んだ。
うわ───恥ずかしい。心の中だけ喚き散らし、その様子を見守る。気付けば近くの女性がこちらを見てひそひそと話していた。和巳の色っぽい仕草にやられたんだろう。
「ふふ、女性だと人目を気にしなくていいね。手を繋いたって、ハグしたって平気だし。これから外で会うときは女装してからにする?
「もう二度としない! 今日だけだよ!
彼の言葉に戦慄して言い返した。本当、次もこんな姿で歩くとか冗談じゃない。これは罰ゲームだ。
能天気な彼にやきもきしながらクレープを食べ終える。そのとき、あることに気付いて再び背筋が凍った。
「和巳さん!! トイレに行きたい!!
「あ、そう。自己申告しなくてもいいから行っておいで」
「いやいやそうじゃなくて、どうしよう! 俺今女のカッコじゃん!?
できるだけ声を潜めて彼に詰め寄る。何も考えずに外へ出てしまったけど、トイレは何かとまずくないかな!? 絶対に女性トイレには入れないし、かと言って男性トイレに入ってるところを誰かに見られたら不審に思われる。
でも、今あれこれ考えている余裕はなかった。
「うぅ……和巳さん、とにかく一緒に来て! お願い!
押し寄せる尿意には勝てず、彼の袖を掴んでお手洗いまで足早に向かった。当然、入るのは男性トイレ。軽く中を覗き、誰もいないことを確認する。
「和巳さん、俺ここでするから誰か入ってこないか見張ってて!
「ん……
のんびり余裕をかましてる彼にお願いし、ロングスカートを捲し上げる。汚しちゃいけないし、これが地味に大変だった。何とか全部腕で押さえ込み、下着に手を掛ける。ホッとして用を済ませようとした。ところが。
「鈴、人が来る」
「ほえっ!
今まさにしようとしたその瞬間、トイレに飛び込んできた司に引っ張られて個室に連れ込まれた。そのすぐ後に足音が聞こえ、誰かが用を足す音が聞こえた。
彼のおかげで難を逃れた。……はずだったが、次第に膝が震えだす。
もう駄目だ。我慢できない。
外に聞こえないよう声を抑え、同じように音を殺している和巳に囁いた。
「ご、ごめんなさい。……俺、もう我慢できなくて……っ」
涙目で訴え、下着を下ろした。恋人とも言えない人の前でこんなことするなんてあり得ない。だけど冷静な思考はシャットダウンしてしまった。
振り返った時、彼は心配そうに俺を見つめていた。……いや、多分反応に困っていたんだろう。普通は誰だってそうなるはず。
……!!
でも、もう細かいことは考えられない。下着から自分のものを取り出して、恥ずかしい音を止むのをただただ待った。
いつもならあっという間に終わる時間が、その時は何倍も長く感じた。体感的には一秒が十秒の長さ。皮肉なことに、用を足したタイミングは外にいる男性と同じだった。せめてもう少し我慢できたなら、こんな醜態を晒さずに済んだのに。
半分沈黙した頭で、何とか後始末をした。和巳……さんは誰もいないことを確認すると、俺に個室から出るように伝えた。
正直、その後のことはあまり覚えてない。謝ったことは確かだけど、放心状態でトイレを出て、スタジオへ戻った。
そして彼に支えられて家に帰った。それが、久しぶりのデートの顛末。
「あ───!! もう無理無理、死にたい!!
「鈴、簡単に死ぬなんて言っちゃいけないよ。世の中には生きたくても生きられない人が」
「いや今だけは言わせて……! もう女装は懲り懲りだよ!!
ちなみに、鈴鳴のネガティブ発言は二週間続いた。


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