執筆:七賀
この国は最高だ。
この国は、最悪だ。
そのどちらも最近よく聞く言葉だ。一方を堂々と言明するものが増えている。響きはともかく、意味合いとしてはまったく逆の言葉。……だからその両者は必ず対立していて、テレビの中で苛烈な争いを繰り広げていた。女同士で掴み合ったり、男同士で殴り合ったり、正視できない惨状。ひどいねと呟くと隣でコーヒーを飲んでる青年も「ひどいね」と返した。
「でも俺達も住む場所が違ったらああなってたかもしれない。環境が恵まれてたよね、二緒」
そう言って笑いかける彼が、自分のパートナー。歳がひとつ上のサラリーマン、四季(しき)だ。二ヵ月前に入籍した、事実上の夫。この国で一番最初に同性婚が認められた地域で出会い、交際を始めた。同性愛者に寛容な街だった為、何をするにも不自由に感じたことはない。
しかし国全体で見ると同性婚が認められている地域は三分の一にも満たなかった。テレビに映り出されている争いは、一般人と二般人の価値観の闘いだ。国のニュースは同性愛者が激増したことを問題提起しているけど、単にカミングアウトする人間が増えたというだけのことだろう。現に、パートナーと結ばれる為わざわざ自分達の住む街に移住してくる者が多かった。
同性愛者の青年、二緒(にお)は四季を一瞥した。彼は四季を誇りに思っている。何物にも代えがたい、自身より大切な尊い存在。普遍性がないからこそ出逢えた世界で唯一の人。
リモコンを取ってチャンネルを変えた。重苦しいニュースから一転、今人気の観光地を紹介している番組に変わる。それまで食い入るように画面を見ていた四季が不思議そうに二緒を見た。
「いや、ほら、仕事前に暗いニュースは見ない方がいいよ」
朝陽が窓から差し込み、最近育て始めたバジルを照らしている。ちょうど焼きあがったトーストにバターをぬって差し出すと、四季は何も言わず受け取った。
先月越してきたマンションの滲みひとつない白い壁。コーヒーメーカの起動音。当たり前のように置かれている朝刊。それら全てが朝を象っている。一日の始まり。二緒は四季と過ごせるこの時間が大好きだった。
幸せだ。愛している。平和で平凡で、思わず夜もあくびしてしまいそうなこの生活を。
「行ってくるね、二緒」
「行ってらっしゃい。あ、今日は何時に帰ってくるの?」
「うーん。……なるべく早く帰るよ」
玄関へ向かう四季にコートを手渡す。彼はここ数週間帰りが遅い。先日その理由を尋ねると、接待の一言で終わってしまった。毎日?と訊き返すと、今だけだよ、と返ってきた。事業拡大の真っ最中だから、落ち着いたら残業もしないで帰ってこれる。お前のつくった夜飯が食べれるよ、と言われた。
それを聞いたら何も言えなかった。
彼の言う通り、今だけ我慢すればいい。二緒自身は結婚のタイミングで入籍した為、専業主夫として家庭に入っている。外へ出なければ一日誰とも話さないこともあった。
今の自分は、この3LDKが全てだ。それでもいい……から、せめて水が飲みたかった。密かな悩みだが、先月からやけに喉が渇く。枯渇した心を潤してくれる水が、どうもここには無いようなのだ。
「行ってらっしゃい……」
無人の廊下で呟いた。四季はとっくにエレベーターに乗って下へ降りている。タイムラグがあったみたいだ。
見届けたはずの彼の背中が思い出せない。別れ際が思い出せない。それはたった今の出来事なのに。
日課の、行ってらっしゃいのチューはしたっけ。いや、そもそもそんなことしてないっけ。
……あぁ……。
不思議だ。
仕事を辞めて家事に専念して、夫としか関わりを持たなくなっただけというのに、脳の一部が完全停止してしまった。
自分の一日もルーティーン化されている。四季を送り出し、皿を洗い、布団を干し、掃除をする。あとは買い物ついでに公共料金の支払いを済ませる。面白い話、この流れさえインプットしてしまえば頭は一切使わない。使う機会が見つからない。科学が発達した時代故、若いのにぼけていく人達の気持ちが少し分かった。便利すぎるのも考えものだ。たまに電車に乗ると分かる。
誰もが下を向いて、まばたきもせずスマートフォンを弄っている。その姿そのものがロボットに見えた。指の一定した動き、彼らはこの場を離れたらちゃんと笑うんだろうか、なんてどうでもいい事を考えた。
人間を変えたのは、その小さな機械なんじゃないかと思う。素晴らしいシステムを使ってるように見えて、実際はシステムに使われている。機械の支配下。言ってしまえば電車だってそうだ。鉄の塊、その腹の中で運ばれていく。
どこに?
分からないから、人なんてそのうち何をせずとも絶滅していくんじゃないかと思った。ただでさえ自滅していく生き物なんだから。
自分だって、いつか自滅するかもしれない。幸せのど真ん中にいて、友人が羨む生活をしているのに、漠然とした不安をぶら下げている。ひとりで過ごす時間が長ければ長いほど。
十年後、二十年後の自分は何をしているのか。ずっと先の未来も、本当に四季の傍にいるのか……。
やがて洗濯物を畳んでいる間にうたた寝してしまった。起こしてくれたのはインターホン。慌てて玄関へ向かい、ドアを開ける。そこには紙袋片手に微笑むひとりの青年がいた。
「こんにちは、二緒くん!実は親戚から林檎をたくさんもらってさ。ウチじゃ食べきれないから、旦那さんとどうぞ」
「あ、ありがとうございます。あの、もし良かったら上がってください!」
暖かい陽気の昼下がり、訪れてきたのは隣の住人だった。やはり彼も男のパートナーを持つ専業主婦で、日中は家にいることが多いようだ。しかし自分よりはよっぽど活発的だと思った。自分は引っ越してから、それこそ挨拶回りしかしていない。このマンションは特に同性のカップルばかり住んでいるようだけど、四季以外の人物は人見知りしてしまう為、なかなか近所の輪に入れずにいた。
家の中でさえ孤独を感じるのだから、隣人の訪問は素直に嬉しかった。紅茶を二人分淹れて、簡単なお茶菓子を用意する。
「その林檎ね、皮は捨てないで紅茶に入れるといいよ。美味しいアップルティーになる」
「ありがとうございます。今度やってみます!」
始めは他愛のない世間話をしていた。趣味や出身、旦那との馴れ初めとか、……最近帰りが遅くて、それが地味に辛いこととか。適当な相槌をしておけば続く話だった。ところが一時間近く経った頃、彼は急に声を潜めて脚を組んだ。
「ねえ、ところで最近セックスした?」
紅茶を吹き出しそうになった。実際噎せ込んで、すぐにティッシュに手を伸ばした。流れが唐突すぎたし、親しくない相手から聞くワードじゃない。聞き間違いだと思いたかったものの、彼は大真面目な顔でこちらを見つめている。
「可愛いなぁ、そんな照れないでよ」
「照れてませんよ、驚いてるんです」
「わかるよ、俺も初めはそうだった。でもね、このマンションに入る主夫は必ず通る道なんだぁ……」
は?
何の話かも分からず眉を寄せる。二緒に、青年は優しい声で説明した。
「あ、やっぱりまだ俺以外誰も家に来てない?」
「え、えぇ」
「そのうち来るよ。二緒くんが寂しい思いしてるなんて知ったら、皆我が先にって押し寄せてくるんじゃないかな」
「く、来る?誰が?」
まるでホラーのような言い回しにぞっとする。すると答えを聞くより先に、唇に人差し指が当たった。最後にシたのはいつ?と再度質問された。仕方なく一週間前と答える。オナニーは?と訊かれ、そんなことまで答えてやる義理はないと怒りを覚えた。あまりにもプライベートな話だ。このマンションではそういう内情を話すのが習慣なのか、と思ったら鳥肌が立った。
結局言葉を濁して俯いていると、彼は「また来るね」と言って帰ってしまった。
いや、できればもう来てほしくない。まるで自分がたまってることを心配しているような素振りだったけど、確実に彼の方が欲求不満だ。ずっと家の中で、話し相手に飢えていて、限られた場所でしか過ごさないで。本来解き放つべきの精力を持て余している。
そりゃ、たまにはむしゃくしゃもするだろう。
しかし、彼が帰ってからも胸には何かが引っ掛かっていた。この優良マンションの裏事情とでも言うのだろうか。日中ひとりで過ごしている若奥さん(いや、旦那か)が多い為、互いに慰め合うコミュニティがあるようだ。新参者はまずそこへ挨拶に行って参加の可否を伝えないといけない。それを放棄すると勝手に参加したことになって欲求不満の住人達が家に押しかけてくる……。
くだらない。馬鹿馬鹿しいにもほどがある。どこの低劣なドラマだ、と鼻で笑ってしまった。都市伝説でもいいぐらいだ。もし本当にやってきたらすぐにでも通報してやる。ただローンをくんでいるし、多少の悪ふざけは目を瞑らないといけなかった。
再び家事に取り掛かり、夜まで四季の帰りを待った。
彼が帰ってきたのは日付が変わりそうな深夜。酒と煙草の匂いは近付かなくても分かる。正直今だけはキスしたくないと思った。
「はぁー、疲れた。お風呂わいてる?」
「あ、ちょっと待ってて」
ふらふらの四季を支え、二緒は自分も服を脱いで浴室に入った。たまっているのは確かだ。彼の背中を流すふりをして、下半身を彼に擦り付ける。彼もそれに気付いているようだったが、結局湯船に入るまで何も言われなかった。
男二人入るのがやっとの浴槽で、二緒は四季に抱きつく。
「俺が居ない間、寂しかった?」
「寂しいよ。いつだって……」
優しく頭を撫でられる。こういうところはやっぱり四季だ、と安心した。会話の流れから、いっそ自分もまた働こうか、と話すと「俺が稼ぐから大丈夫」と笑われた。
「四季、このマンションの人から……何か怖い噂聞いたことある?」
「噂?ないけど、どんな?」
「ん~……いや、実は俺もよく分かんないんだ。あはは」
何となく、今日あったことを言えなかった。また馬鹿な噂を真に受けて、と怒られるだけだ。素直なところが好きだけど、流されやすいのがお前の悪いところ、といつも言われていた。それは自分でもよく分かっている。
「四季、今日は……疲れてるよね」
腰をくねらせ、誘うように彼の胸に手を添える。彼はやはり頷いた。
「ごめんな。休みに入ったら、いっぱい抱いてやる。俺も、お前が嫌だって言うまで抱きたいから」
彼の手が二緒のペニスに伸びる。柔らかかったそれはすぐに硬くなり、水面下でも分かるほど真っ赤に染まった。扱くペースが速くなるほど、お湯が揺れて外へ溢れる。気持ちいいと甲高い声を出してしまったけど、「風呂は響くから」と口を手で塞がれた。
本当はもっと声を出したい。無様に腰を振りたい。ぷっくりと膨らんだ胸の実をしゃぶらせたい。
……彼の、たくましい性器が欲しい。
でもそんな我儘は言えない。そこまでたまっていると思われるのも嫌だった。けっして付き合う前から清純ぶっていたわけじゃないが、取り乱すほどのセックスをしたことはない。本当はもっとひどくしてほしい、なんて口が裂けても言えなかった。幻滅されるのが怖くて。
以前に比べれば四季だって辛いはずなのに、疲弊のせいかペニスが勃つ気配はない。ゆらゆらと、頼りなく水中で揺れている。
これが欲しい。喉から手が出るほど欲しいのに、心の底では見下していた。羽化する前の蛹のように、手に入れてもすぐには喜べない。成虫になるときを待っている。
「ふぅ、うぅ……っ!」
彼の掌の中で吐精しても、元凶となる数滴がまだ体内に残っているようだ。そのわずかな水たまりが洪水を引き起こし、自分をも溺れさせる。
「はは、二緒の精子入りのお風呂になっちゃったな」
「あっ、ごめ、ん……」
「いいんだよ。本当に可愛い。……愛してる」
とけそうな時間だった。愛しい人に甘えられる短い時間。愛してる、愛されてることを再確認した。そうしないと何かが剥がれ落ちそうだった。やってのことで繋がってる、首の皮一枚……。
ふと思う。
愛してるというより、信じてると確かめたかったのかもしれないと。いつまで経っても帰りが遅く、セックスもしない生活の中で、自分が彼の一番だという証明が欲しかった。仕事の話から行きつけの居酒屋の話までするのに、こちらのことは何も訊いてこない彼。いつもどこのスーパーに買い物に行っているのか、近所では誰と一番話すのか……、そんな些細なことでいいから訊いてほしかった。
そんなに我儘なことだろうか?分からないけど、家庭に入ってからの自分は四季を全面的に支える以外やることがなかった。
社会に貢献したいなんて立派な考えは持ち合わせていないが、少なくともここに存在している人間なのだと手を挙げたい。
町全体を一望できる高層マンションも、中は隔離された病棟のように窮屈だった。外界とのアクセスなんて無に等しい。他人はともかく、今の自分は。
ある夜。帰ってきて早々に眠った四季のスーツを埃とりで綺麗にしていた。その時かいだことのない香水が鼻腔をくすぐった。思わずポケットの中をまさぐる。本当に無意識下で、何かピンときたわけじゃない。焦ってるわけでもない。自然と、手がそういう動きをしただけのこと。そんなことしなければ、彼のポケットから男性向けの風俗店の名刺なんて見つけなかったのに。