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4(八)

執筆:八束さん

 

 

 

 そのあとどうやって家に帰ったのか覚えていない。
 気がついたら四季の帰ってくる時間で……気がついたら身体に染みついた習性で、風呂を沸かし、料理を作り、笑顔で四季を出迎えている。
 テーブルに並んだ料理からは湯気が立ちのぼっていて、冷えきった自分たちの関係に対する当てつけのようにも見える。


「二緒、何か変わったことはあった?」


 何故……
 何故今日に限ってそんなことを訊いてくるのか。
 かちゃり、と箸が茶碗に当たる音が、やけに大きく響く。
「別に……
「そう……前言ってた、お隣さんとは会ったりしてない?」
 今度は危うく箸を取り落としそうになった。本当に……何故……
 もしかしたらバレたのか、と、四季の顔を盗み見る。でも何も読み取れない。
……会ってないけど」
「そう、それならいいんだけど」
「それならいい……?」
 目が合う。四季の真意を探るつもりだったけれど、逆に見透かされそうな気がして、目を逸らす。
「何なの、それならいい、って……
「いや……あまりこのマンションの住人によい噂をきかないから……正直、関わってほしくないというか」
「関わってほしくない、って……
 何も知らないくせに。
 水底に沈んでいた泥が巻き上げられるように、どす黒いものが広がっていく。
「いいひとだよ、皆。お裾分けくれたり、安売りの情報教えてくれたり……ひとりで四季の帰りを待って……心細いときに、話し相手になってくれたり……
「二緒」
 そんな風に名前を呼ばないでほしい。そんな……楔を打ち込んで動きを封じ込めるみたいな言い方。
「二緒は何も分かってないから」
……は」
「この街は、もしかしたら……思っていたような……『住みやすい』街ではないのかもしれない」
 それはあまりに唐突で……
 四季は何故急にそんなことを言い出したのか。
「いや、それどころか……危険な街なのかもしれない。だから、できるだけひとりで出歩かないで欲しい。買い物はネットで……いや、それも駄目か、宅配業者も危険だ。できるだけ受取は宅配ボックスで……生鮮食料品は俺が買ってくるから」
「ちょっと……何言ってるか分かんないんだけど」
「分かんなくていいから!」
 四季が何か、焦っているのは分かる。でもこっちにだって言い分はある。
「何それ……ちょっと一方的過ぎない?」
「とにかく、ひとりで出歩かないで。俺以外の奴とできるだけ顔を合わせないで」
「は……? そんなの急に言われても困る。そんな束縛する権利、四季にあったっけ」
「今はまだ……分からないかもしれないけど、頼むから言うとおりにしてくれ」

 言うとおりに……

 そう、いつもいつも、自分は四季の言うとおりにしてきた、と、二緒は思う。主夫になることも、ここに住むことも、電化製品のメーカーから、カーテンの色に至るまで、いつもいつも……
「分からない……分からないよ……だから、分かるように言ってよ」
 苦虫をかみつぶしたような顔。
「分かってないのは四季の方じゃないの」
 駄目だ。駄目だ駄目だ。抑えろ。ロクなことにならない。でも……
「毎日……俺がどんな気持ちで過ごしてるか知らないくせに。四季はいいよ。外に行って、いろんなひとと会って、仕事、大変かもしれないけれど刺激もあって……。でも俺は……知り合いもいないところに越してきて、やることといったら掃除して洗濯して四季の帰りを待って……買い物して料理して四季の帰りを待って……十分も一時間の違いも分からない気が狂いそうな時間の中、四季の帰りを待って……待って、待って、待って……ずっとその繰り返ししかなくて……! なのに、その上さらに俺から自由を奪おうっていうの?」

「二緒、信じてほしい。俺は本当に二緒のことが心配なんだ」
「だったら……


 だったら何で風俗店なんて行ってんだよ

 

 ……でも結局、それを口にすることはできなかった。
 あらためて思った。
 不満はある。こんなはずじゃなかったと思うことは山ほど。でも、四季と別れたいわけじゃなかった。
「二緒……
 立ち上がり、四季が肩を抱いてくれた。
 何だよ今さら。取り繕うなよ……
 でも、そんな風に強がることもできなくて……
 キスをする。
 四季の手が、動く。
 ああ、やっと、欲しかったところに……あと十センチ、五センチ、一センチ……
「二緒、お願いだよ、どこにも行かないで……どこにも行かないって約束して」
 ……でもそこから先の、記憶がない。

「行ってきます」
「行ってらっしゃい!」


 いつもと変わらない毎日。
 食器を洗ったら次は洗濯。洗濯機を回している間に、安売りの情報をチェック。洗濯機がピーピーいったら、朝の情報番組を見ながら洗濯物を干す。今日もまた、同性愛者の諍いが取り上げられ、「これはよくない風潮ですねえ」とコメンテーターが分かったようなことを言っている。どうやら痴情の縺れの末の殺人で、センセーショナルな話題のためか、チャンネルを変えてもどこも同じことをやっている。たまらずテレビを切った。
 ああ、外の空気が吸いたい。
 今日は久しぶりに、ちょっと離れたところのスーパーまで足を伸ばしてみるか。それで帰りに近くのところで、二本百円になっていた牛乳を買おう。
 財布をポケットにねじこみ、ドアを……
 あけようとしたが、あかなかった。
 鍵は外した。ドアノブは動く。それなのにガツガツと突っかかってドアがあかない。


『どこにも行かないって約束して』


 四季の言葉が不意に甦る。
 いや……そんなまさか……考えすぎだ……きっと何か……そうだ……ドアが壊れてるんだ、きっとそう……
 でも外に出られないと分かると、急に恐怖感がこみ上げてくる。大丈夫。四季は帰ってくるんだし。でも、でも……
 たまらず、隣の男に電話をかけた。
 気配から、すぐに出てきてくれたのが分かった。男はしばらくドアの前で逡巡しているようだったが、三分もしないうちにドアはひらいた。外の光が眩しかった。
「あ、ありがとうございます……何か、急にドアがあかなくなって……何か引っかかってたんですかね」
「二緒くん……
 男の表情は冴えなかった。男が視線を落とした先を見ると、そこには閂型の鍵があった。
「こ、れって……
 鍵? 一体誰が、どうして……
 いや、そんなことができるのは……
 それの意図するところに気づいた瞬間、ガタガタと震えが止まらなくなった。


「二緒くん、もしかして旦那さん、怒らせちゃった……?」

 二緒の訴えを、男は黙って聞いてくれた。
「今までそんな奴じゃなかったんです。強引なところはあったけど、力づくでどうこうしようとかそういうことは……
 ああ……
 何だろう……また……
『三階の彼』と同じようなことを言っている……
 悲しいという感情の裏側に、怒りでもなく……もちろん喜びでもなく……垂れ込めた雲のようにもやもやしたものが貼りついている。
 男に教えてもらった、林檎の皮を使ったアップルティー。すっかり冷めてしまった。入れ直そうかと立ち上がりかけたそのとき……
「彼は気づいてしまったんだ」
 そう、呟く声がした。
 真昼なのに。天気が悪くなったわけでもないのに。急に部屋が暗くなった。男の顔にも影が落ちる。
「え……?」
 しかし次の瞬間、男はまたパッと、人好きのする笑みを浮かべて言った。
「ところで二緒くん、最近彼とセックスした?」
「はっ?」
「最後に彼とセックスしたのはいつ?」
「ちょ……ちょっと待ってください。何でこの話の流れでそういうことになるんですか」
「教えてよ。……これも重要なことだから」
「って言われても最後にしたのは……最後にした、のは……
 あれ……
 そう言われてみればいつなんだろう……
 このマンションに越してきてからの記憶が、ない。そんな……そんなはずはない。越してきてから一度もしなかったなんてそんな……そんな……
「まさか一回もやってない?」
「そんな……そんなことは……
「それとも思い出せない?」
「思い出せ……
 どきりとする。男が二緒を見る目は、からかっている目でも、蔑んでいる目でもない。そうだ、これは……観察の対象を見る目。
「正解だよ」
「えっ」
「思い出せない。それが、正解」
 何だ。一体何なんだ急に。四季といいこの男といい、どうして皆、わけの分からないことばっかり言うんだ。
「仲睦まじそうに見えたカップルも、何故だかここで暮らし始めると破局する。痴情の縺れなんてよくある話かもしれないけれど、それにしたってここ最近の離婚率は異常でね。マスコミに嗅ぎつけられて騒ぎ立てられる前に、自治体で調査をすることになった。俺はその派遣。調べていくうちに、ここに住む主夫が、揃いも揃って同じことを言い出すことに気がついた。……一度もセックスをしたことがない」
「そんな……セックスなら……それこそ昨日……あんただって……
「そう。どうでもいい奴とのセックスは覚えてんだよね。でも一番大切なひととのセックスだけがぽっかり、記憶から抜け落ちてしまっている。そうして忘れていく数が増えていけば増えていくほど、身体の飢えが激しくなって……やがてそれに耐えきれずに、離婚する」
「はっ……
 あまりも突拍子がなさ過ぎて、息しかでない。
「何それ……そんなのハイそうですか、って信じられるわけないじゃん。あんたそれ、マジで言ってんの? 公務員も随分暇なんだね。それとも何? 何かのドッキリ? にしたってシナリオお粗末過ぎんじゃないの。そんな、そんな……
 信じられない。馬鹿馬鹿しい。根拠なんてない。けれど彼の変わらない表情そのものが、一番の根拠であるように思えてくる。表情……そして何より、自分自身の記憶……
「だとしたら何でそんな奇妙なこと……
「さあ? 原因の分からないことなんてこの世の中にはいっぱいあるだろ。サイコロを一回振って、そのとき何故一の目が出たのかの説明はつかないけれど、一の目が出る確率は分かる。俺が言ってるのはそういう話。たまたま離婚するカップルが多くて、たまたま相手とのセックスに関してのみの記憶に障害を来す主夫が多い。そういう場所があるって話」
 そんなはずはない。そんなはずはない。からかわれたんだ。四季にも言われたじゃないか。流されやすいのがお前の悪いところだ、って。


「二緒……どうして約束守ってくれなかったの」


「約束……
「今日、誰か、家に入れただろ」


 どうして分か……ああそうか、鍵……隣の男が出て行ったあと、かけ直さなかったから。
「入れた。でもその前に四季の方こそ、何か言うことあるんじゃないの。あんなさあ……ドアに鍵までつけて……そんなことされたら、余計に、俺……
「怖いんだ。二緒……ここに来てから、何だかぼんやりしてる。そのままどこか……別の世界に連れていかれてしまいそうで……
「四季、知ってたんだろ、あの噂」
 四季の眉がピクンと引きつる。
「お隣さんから教えてもらったよ。大切なひととのセックスを忘れてしまう……って話。もしかしてそれを気にしてるの? 四季、ひとのことはさ、流されやすいって馬鹿にして……
「だってお前、本当に忘れてしまってるじゃないか!」
 四季が何かを叩きつけた。ひらひらと落ちていったそれは、風俗店の名刺。何……何なの、自分の立場が危うくなったら逆ギレ?


「俺もう嫌なんだよ、いつお前がまたこういうことするんじゃないかってびくびくしながら暮らすのは!」


 何を……言ってるんだ……
「何なの……わけ分かんない……それを言いたいのは俺の方だよ! 四季、俺がずっと知らないと思ってただろ。四季がそんなだから……ずっと抱いてくれないから、俺、寂しくて……寂しくて……
 寂しくて……そう、ここに越してきた頃、知り合いもいなくて……そんなこと誰にも話せなくて……でもどんどん渇きはひどくなっていって……それで、嫌だったけど……でもどうしようもなくてそのサービスを使って……
 でも、何で……? そういうことをしたことも忘れてしまってるんだ……忘れてしまうのは、四季とのセックスだけじゃなかったのか。いや、だから忘れるとかそんなのありえない……
「他の男とそういうことしようとしてんの見せつけられたときの俺の気持ち、お前、想像したことあるのかよ!」
「だから俺はそんなことしてない!」
「してないよ」
「え……?」
「だってその直前で相手ぼこ殴りにして帰らせたから。本当はそんな気分じゃなかったけど、お前がどうしてもって……今やってくれないと浮気するって聞かなかったからその場でやった。でも次の日になるとお前はけろっとしてて。そんなことなかったみたいに。それで、今日は早く帰ってこれる? もう一ヶ月もやってないじゃん、って……。そんなことが、数回あった。ふらふらと男漁りに出かけて、それを俺が止めて、やって、でも覚えてなくて……。病院に連れていった方がいいんじゃないかって思った。でも、それ以外の記憶はしっかりしてるし、第一こんな奇妙なこと、どう説明していいのかも分からなかった」
「やめろよ、そんな……
 何で四季の方が責めるような目で見てくるんだよ。悪いのはお前じゃないか。俺を放ったらかして、閉じ込めて、飼い殺しにして……言い訳にしたって下手くそすぎだろ。いくら流されやすい性格だからって、馬鹿にしすぎだ。皆、皆、皆……
「そんなの信じられるかよ!」
「俺だって信じられない!」
 瞬間、腕をつかまれ、引き寄せられると同時にくちづけられた。こんなキスは初めてだった。かみつく……なんて言葉じゃぬるい。すべてを飲み込んでやろうとするみたいなキス。すぐに口の端から唾液がだらだら溢れる。
「ん、ん、んんんー!」
 息をする暇も与えないというような強引さにくらくらする。与えられる苦しさがむしろ嬉しかった。もっともっと苦しくして。
 破れてもかまわないという勢いで服を剥ぎ取られる。
「これ、何だよ」
 身体中に散った跡。あっと思ったけれどもう遅かった。跡をかき消すように四季が歯を立ててくる。そのまま食いちぎられるんじゃないかと思った。
「痛っ……し、き……っ、い、た……あ、あ、あー……っ」
 噛まれたところがじんじん疼く。痛い、と言いながら、でももう既に、痛い、だけじゃなくなっていた。勃ち上がった前を見られてしまう。
「淫乱」
 ぞくぞくする。いやらしい、恥ずかしい、愛されている、だけじゃない。そこに僅かに混じる絶望、が、余計に快感を増幅させる。絶望。駄目だ、四季にこんな姿を見せたら軽蔑されてしまう。でも、それが、気持ちいい。痺れる。
 四季の舌が、さっきからずっとふれてほしくてじんじんしていた胸の先にふれる。優しく舐められたのは一瞬だった。思いきり歯を立てられる。
「ひぎっ……あーっ、やっ、四季っ、ちぎれちゃうっ、ちぎれちゃう、からっ、やめっ、ほんとにやめっ、あああああっ!」
 強く引っ張られたと同時に、射精してしまった。
 ようやく解放された乳首に恐る恐る目をやると、醜い形に腫れ上がっていた。息がなかなか収まらない。
「後ろ向けよ」
 モノみたいにぞんざいに身体をひっくり返される。自分が垂れ流した液体をおざなりに塗りこまれ、そして一気に突き入れられた。
 欲しかったはずだ。
 四季のこれが欲しくて欲しくてしかたなかった。けれど今はただ、凶器でしかない。ぐう、と情けない声が漏れてしまう。
「欲しかったんだろ」
 うまく頷けずにいると、もっと嬉しそうにしろよ、と、尻を叩かれた。欲しかったんならもっと嬉しがって咥え込めよ。ゆるゆるなんだけど。抜くぞ
「いやっ……咥える……から……お願い……お願、あっ……
 また尻を叩かれる。身体を支えることができない。するとまた叩かれる。
 四季って……四季って……嗜虐趣味でもあったんだろうか。こんな四季、知らない。怖い。でも怖いだけじゃない。ぞくぞくする。もっと叩いてほしい。滅茶苦茶にしてほしい。イくことしか考えられないケダモノに堕としてほしい。言葉なんて忘れさせてほしい。こんなセックスをしたかった。ずっとしたかった。
「いい感じになるのは一瞬だけだな。こうやって……叩いてやった一瞬だけ。すぐまた緩くなる。なあ、俺このままずっとお前のケツ叩いてないといけないの? いい加減手ぇ痛いんだけど」
「ごめ……なさ……ごめ……あああっ!」
 叩かれた瞬間に、また、イった。
 体勢が崩れかけたところ、おもむろにぐっと腰をつかまれて揺さぶられた。容赦のない動きだった。
「やめて……やめ……イって……イってるからああ」
 突かれるたび、何か……大切なものが、理性が、汗や精液とともに飛び散っていく。剥がれ落ちていく。……記憶、が。
 忘れてしまうんだろうか、これも……
 ひときわ奥まで突かれた瞬間、どくどくとナカに注がれたのが分かった。すぐさま四季はそれを舐めろと促してきた。
 奥まで咥え込むのは苦しい。でもその苦しさが欲しい。
 四季の制止を振り切ってむしゃぶり続けた。
「欲しい……欲しいの……まだ足りない……ねえ、もっともっと頂戴」
 四季の上にまたがって腰を落とす。四季で埋めてほしい。そのために自分を、空っぽにする。
 下品な声を上げて、なりふり構わず腰を振って、痛みですら感じて……ああ……四季に軽蔑されちゃう……せっかく今まで何とか取り繕ってきたのに。四季の邪魔にならないよう、四季を支えられるよう、満足させられるよう、そんなパートナーでいられるよう努力してきたのに……全部、台無しになっちゃうな……お前がこんな変態だとは思っていなかった、って、離婚されちゃうかな……嫌だな、そんなの。それは嫌……ああ、でも、いっか……
 どうせ忘れてしまうなら。

「行ってきます」
「行ってらっしゃい!」


 いつもと変わらない毎日。
 見送ろうとしたとき、あまりの全身の重怠さに思わず顔をしかめたのを、四季に気づかれてしまう。
「どうした?」
「んーん、何か節々が痛くてさー、寝違えでもしたかなー」
「大丈夫か?」
「うん、ちょっと休んでれば大丈夫だと思うから。ごめん、気にしないで」
「そう。何かあったら連絡して。今日は一日家にいろよ」
「うん」
「どこにも行かないで。安静にしてるように」
「分かってるよ」
 もう……心配性だな……
 四季のこういうところがときどきちょっと、面倒くさい。大切にしてくれてるんだろうけど、でも二緒の求める「大切」とは、ちょっと、違う。
 バタン、と、ドアの閉まる音が、いつもより大きく感じられた。
 4LDKの新居。
 四季とふたりでいるときは世界で一番安心出来る場所なのに、ひとりぼっちになると途端に、牢獄のように冷たい場所。
 あー……四季が帰ってくるまであと何時間……
 ぽつりと呟く。
「そんなに大切に思ってくれてるなら……ちょっとくらい抱いてくれたっていいのに」

 




 エレベーターを待っていると、そこに隣の部屋の男がやって来た。
「おはようございます」
「おはようございます」
「お仕事ですか」
「ええ」
「早いんですね。いつもこの時間ですか?」
「ええ。ラッシュに巻き込まれるのが嫌で、あなたも?」
「今日はたまたまです」
 エレベータが来る。誰もいない。乗り込んだのは四季と隣の男だけ。ボタンを押しながら、男が話を続ける。
「ところであの噂、どう思いますか」
「噂……
 ドアが閉まる。
「噂は噂ですからね」
「信じてらっしゃらないんですか」
「信じてないことはないですよ。実際そういったことは他でもあるようですし」
……に、してはずいぶんと落ち着いていらっしゃいますけど。不安じゃないんですか? あなたのパートナーがもしそんな症状に襲われてしまったら……
 しばらく階数表示を見上げていた四季だったが、ふっ、と、男の方を向いて言った。

「でも……忘れてくれていた方が、都合のいいことだってあるでしょう?」

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

Fin.