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3(八)

執筆:八束さん

 

 

 

 幸せすぎて怖い。
 そういう言い方をすることがある。
 でも、怖い、と思っている時点で、幸せはもう、じりじり、侵されていっているんじゃないか。
 いつから……
 一体いつから、『それ』は始まったんだろう。

 自分は、自ら幸せを擲ってしまった愚か者なんだろうか。
 自分さえこんな馬鹿な真似をしなければ、四季と幸せな暮らしを続けることができんだろうか。いつまでも、いつまでも。「めでたし、めでたし」で締めくくられる物語の終わりみたいに。
 四季が抱いてくれないのが不満だった。
 こんなに飢えている自分を放ったらかして、四季は風俗店で遊んでいるというのが許せなかった。
 でも……果たしてそれが原因だろうか。
 そんなものが、他の男に抱かれる理由だっただろうか。
 もっと、もっと前から、自分が『それ』をしてしまう理由が燻っていたような気がする。
 ああでも……今は、いいや。とりあえず今は、そんなこと、どうでもいい。せっかく目の前に、焦がれていたものがあるのだから。溺れないと、損だ。

 隣の男と一緒に、三階に越してきた男のもとへ向かった。
 インターホンを鳴らすより先に、ひとりの男が飛び出してきた。「何で分かんねえんだよお前なんか知るか!」
 部屋の中からも悲鳴じみた声が聞こえる。男は二緒たちには目もくれず、階段の方へ向かってしまった。突然、修羅場を見せつけられ、浮ついていた気持ちがスッと冷えた。どうする? と男の顔色を窺ったときに、また中からひとりの男が出てきた。さっきの男は二緒よりだいぶ年上に見えたけれど、こちらは同世代に見えた。
「分かってないのはお前の方じゃないか! 何で俺を置いていくんだよ! 何で……いつの間にそんなことになっちゃったんだよ! なあ!」
 ひとめも憚らず、絶叫。
 目が合った。
 一瞬……何故、そう思ったのか分からない。
 知っている。
 と、思った。
 まるで……鏡を覗いているかのような。
 でも、ぼんやりはしていられなかった。叫びすぎたのか、彼が急に息を乱し、胸を押さえて蹲ったからだ。

 一瞬、救急車を呼ばないといけないのか、と焦ったが、どうやら単なる過呼吸だったみたいだ。
 落ち着いた、と思ったら、今度は彼はさめざめと泣き始めた。面倒なことに巻き込まれるのは嫌だったけれど、ここまで来たら引き返せなかった。「一体どうしたんですか」と、話が長くなりそうなフリをしてしまう。
「彼が……セックスしてくれなくて」
 またえらく直球だな。このマンションの住人は皆そうなのか?
「俺たち、体調悪いとき以外は今までほぼ毎日やってたんですよ」
 いきなりそんな性事情を訊かされても……。二緒は若干引いていたが、彼は混乱して、きっと正常な判断ができていないんだろう。とにかく思っていることを全部吐き出さないと気が済まないみたいだ。どうしたものかと隣の男の様子を窺うと、彼はやたら真剣な表情で、彼の言葉に相槌を打っている。
「当然、引っ越してきた日だってするじゃないですか。したいじゃないですか。せっかくの記念日なんだから。でも彼……勃たなかったんですよ。しごいて……は、くれましたけど、そんなんじゃ不完全燃焼で。分かるでしょう?」
 分かる、と反射的に同意しそうになって、慌てて思いとどまる。自分はまだそこまでの……自分自身はどんなに恥ずかしい姿をさらしても……四季との性事情を暴露してしまえるような太い神経は持ち合わせていない。そんな二緒の心中など知らず彼は、二緒の反応などまるで気にせず話を続ける。
「でもまあそういうときもあるかなって、その日は諦めたんですよ。でも次の日、だってお前がやりたがってなかったからじゃないか、なんて言うんです。何を言われているのか分からなくて……何を言っても、俺が悪い、っていうスタンスで話してきて……。そんな奴じゃなかったのに。もちろん、欠点だってあったけど、でも少なくともそんな、ひとのせいにして逆ギレするような奴じゃなかった。それからキスもしてくれなくなって……。今まではおはようもいってらっしゃいもおかえりもおやすみも、かかさずしていたのに……! 嫌だ、こんなの嫌だよ……
 そしてまた感極まって泣き出してしまった。
 気の毒だと思う。
 でも……何だろう、この、拭えない違和感は。
 初めて会った相手。初めて聞く話。でもどこか既視感があるのは何故なんだろう。初めて来る部屋……
 間取りは同じでも内装が違うだけで、まったく『違う部屋』だな……と思ったとき、隣の男が言った。


「わかるよ、それはね、このマンションに入る主夫は必ず通る道だから」
 

 ……え?
 確か前にも同じことを……
 涙を拭いながら、彼がゆっくりと顔を上げる。潤んだ瞳。悲しみだけでなく、そこに別の意味が混じり始めていることに、隣の男は果たして気づいているかどうか。
「つらくない? つらいだろ」
 そう言うと男は彼にくちづけた。彼は、一瞬驚いた様子を見せていたが、すぐに男の舌を受け入れ始めた。ぴちゃぴちゃと濡れた音に、漏れる吐息。
 何を……
 一体何を見させられているんだろう。
 おかしいと思うのに。でも、おかしいと思う自分の方がおかしいような気がしてくる。
 彼はもう、先を促すように、男に脚を絡ませている。その動きをすぐに察して、男が服を脱がせていく。露わになる肌。散らばる服……いや、抜け殻。肉の塊がふたつ。
「寂しいの……寂しくて寂しくて……ぽっかり穴があいてるみたいで、このままじゃどんどん穴が広がって、それに呑み込まれちゃいそうで……つらくて……
 切羽詰まった彼に感化されて、彼と同じような表情になってしまっている自覚はあった。もう待ちきれないというように、彼は自分で自分の穴を弄り始めた。あっという間にぐちゃぐちゃと濡れた音が響く。
「埋めて……お願い。隙間がないくらい。何も考えたくない」
「いいよ」
 その瞬間は彼は背中を反らせて、甲高い声を上げた。『悦び』と形容するのが本当に相応しい声だった。全身の震えも、叫びも、苦痛ではなく、快感によってもたらされているものだということがすぐに分かる。
 じく、と、二緒の後ろも疼き始め、たまらず服を脱ぎ捨てる。肉の塊が、みっつ。
 指は、おどろくほどすんなり入った。ナカが濡れていたからだ。濡れて……変だな……今日はまだ慣らしていなかったはずなのに。その様子を見て男が、「こっちおいで」と手招きする。「二緒くんも我慢できなくなっちゃった?」
「うん」
「後ろ向いて。やってあげる」
「ああっ」
 思っていた以上の熱、太さ、深さで、思わず声が漏れた。初めは少しキツいと思ったけれど、でもじきに指の太さなんて慣れて、もっともっととねだってしまう。何やってるんだ。初めて訪れたひとの家で……尻を突き出して……かき回してもらって……恥ずかしすぎてくらくらする。でもその異様さが……興奮する。異様であればあるほど。非現実であればあるほど。
 ぐちゃぐちゃと響く音が、彼より自分の方が大きい気がして恥ずかしい。より飢えているみたいで恥ずかしい。
「もっと……もっとぐちゃぐちゃに……して……そこ……ああっ」
 ぱたぱたっ、と、床に白い雫が落ちたのが見えた。駄目だ、これ以上やったら……よそさまの家なのに、迷惑かけてしまう……白い……
 あれ……
 いつ、中出しされたんだっけ……
 分からない……
 腰を振るたびに、頭の中に靄がかかっていく。口からは、より直接的にねだる言葉しか吐き出せなくなっていく。隣から響く嬌声が余計に飢餓感を煽る。砂底に埋まっていた醜い感情を掘り起こさせる。
「足りない……もっと……もっとぉ……突いてえ……太くてかたいので……もっと……!」
「でももう指、四本も入っちゃってるんだけどな」
「指なんかじゃ足りない……
「もうちょっと待てる?」
「そんな……早く……早く欲しい」
「って言われても……あ、そうだ、君、これ、この子に貸してあげられる?」
 腹の上で揺さぶられるがままになっている彼のペニスを、男がすっと撫でさする。彼は「ああ、ああ、ああ……」と呻き声を漏らすばかりで、果たして返事になっているのかどうか分からなかったけれど、男は「いいって」と二緒に向かって微笑みかけた。
 

 誰でもいい。
 欲しい。


 彼の腹の上に馬乗りになって、腰を沈めた。後ろの男の腰の動きが伝わってくる。それだけで軽くイってしまった。ぷぴゅ、と情けない音がして、先端から漏れる液体。
 彼と目を合わせるのが……発情しきった……自分と同じような……身体を目にしてしまうのが居たたまれなくて、ずっと天を向いていた。けれど腹の上に飛び散った液体を、彼が指ですくいとって口に運ぼうとするのが分かったので、思わずぎょっと視線を下に落としてしまった。
……たい」
 指をくわえたまま、何か言おうとしているが、聞き取れない。
 口元だけに焦点を合わせていると、何故かその動きがスローモーションに見えてきて……
……れ、たい。忘れ……たい。忘れさせて……
 考えなきゃいけないことがあるはずだ。止めなきゃいけないことがあるはずだ。今なら……今ならまだ引き返せる……
 はずないじゃないか。
 ひとくち食べてしまったらもう、最後まで食べきるまで終われない。
 再び天を仰ぐ。仰ぐたびに、地上はどんどん遠ざかる。
 ああまたイく……イく……いやもうイってる……何回イったか分からない……というか、イくって何だ……それすらもよく分からない……
 そのときふと、背後から声がした。
 耳元で囁かれる。耳元……いや……脳に直接送り込まれるみたいな声だった。


「もうとっくに忘れてるじゃないか」