執筆:七賀
狭くて暗い、狂った空間。
さっさとこの家から飛び出して、鮮やかに色付いた世界に逃げ込みたかった。
けど逃がすまいと心に根が張る。腐り落ちることなく窓の中まで侵食してくる。
頬を紅潮させ、口を僅かに開けた十波と目が合った。
鏡を見ているようだった。
弟と顔が似てるなんて思ったことはない。声も骨格もまるで違う、切り離された存在だと思っていたのに。一威は、目の前にいる少年と自分を重ねていた。
自分だって、もし道を間違えていたら。今の十波と同じ、いやもっと酷い姿に成っていたかもしれない。
異常な空間の中、自分だけは違うと思いたかった。自分は“普通”の中にいて、常識の外に出たりしない。そう思うことで心を強く持っていられたけど。
壊された弟を見て思った。本当は、さっさと狂って楽になりたい自分がいたのかもしれない。
抗い続けたから苦しかった。自分達を造った、目の前の男を跳ね除けてきたから……。
「十波、……こっち見て」
それでも、その考えすら狂ってるんだと分かる。
苦しそうに呼吸する弟の髪を掴み、息を奪った。熱い息が吹きかかってくるのにキスをしているという感覚が無い。強いて言うなら自分とキスをしているようだ。
どこまでいっても、自分と弟は同じ。異常なまでに馴染む体液、張り付く肌、変わらない体温。再び繋がって腰を振った。
「ん、く……っ!!」
一威は立て続けに吐精した。十波は口を大きく開けて、腰をガクガク揺らしている。また中でイったんだ。二人して汚い液体を吐き出す。溶けて混ざって、その液体で溺れていく。
「は……っ」
いや。もういい。もう充分だ。
「十波。逃げよう」
こんな悪夢に酔ったら、それこそ気が狂う。
十波を連れて、早くここから出よう。そう思って腰を引いた。黙って顔を顰める弟を見下ろして息をつく。
だがその瞬間、言葉に出来ない激痛が後ろに走った。
叫んだと思う。声にならない声で、下にいる十波が驚いて肩を震わせるほど。
────痛い!
痛い、痛い、痛い。
数年ぶりに感じる、肉を抉られる痛み。生きたまま包丁で切り抜かれる、動物達の痛みを少しだけ理解できた瞬間。
空気が凍った。十波の上で暴れる一威が変えたのではない。彼を後ろから貫く……父、怜次が変えたのだ。
さっきまでは青かった。煌々と揺らめく電球も、その下にいる自分達の肌も。それが今は赤一色に染まっている。赤い液体が脚の隙間から見えた気がする。
正しい思考回路はショートした。膝立ちも出来ず、繋がったまま十波の上に倒れ込んだ。その上に覆い被さる父の体重を感じ、逃げられない体勢に身震いする。
「あぁ……狭いな、やっぱり。でも嬉しいよ。やっと、家族皆で繋がれた」
喜色に塗れた父の声。
こんな時に笑えない冗談はやめろ、と言う余裕も無い。近付いていたことにも気付けなかった。今、父の性器が自分を貫いている。そして十波の中には自分の性器が埋め込まれている。数珠繋ぎだ。三人が重なる滑稽な光景と化していた。
「あ……あ、痛、い、抜いて……っ」
十波を潰さないよう手首に力を込めるも、やはり支えがきかず倒れてしまう。痛みのあまり自身の性器は萎えてしまった。十波の中で力なく萎んでいく。
閉じられない口の端から唾液が零れる。涙も流れ落ちる。十波が驚いてる顔だけがレンズに映っていた。
「一威、十波が心配ならここにいればいい。皆で仲良く一緒に暮らそう。ずっと……」
父が動く。すると激しい地震が起きる。これまで守ってきたもの全てが倒壊して、生き埋めになる。
息ができない。
パクパクと口を開け閉めする一威を満足そうに眺め、怜次はどんどん服を引き剥がしていった。露わになった肌に口付けし、敏感で繊細な部分を指で捏ねる。
「あぁ……しばらくぶりだけど、本当に綺麗だ。本当にお前達は最高だよ。俺の宝物だ」
宝物……というよりは、最高傑作とでも言うように息子達を褒め讃えた。二人同時に抱いている、抱き締めているという現実に酔いしれているようだった。自分が動けば腕の中の二人が高い声で鳴く。喘ぎ声と呻き声が切れることなく響いている。
「一威は十波と違って悪い子でいたいんだよな」
自分は、悪い子のふりをしたい。弟は良い子のふりをしたい。父はそんな解釈違いをしていた。
違う。勘違いだって何度も叫んだ。けど否定するたびに胸の中で何かが暴れる。どこもかしこも熱く昂って火傷しそうになる。
父はそれすらも楽しんでいた。従順な子どもを躾るより、反抗的な子どもを屈服させる方が楽しいのかもしれない。いつになったら素直になるのか試している。
素直……。
確かに彼の言う通り、口先だけ褒められるより正面から叱られる方が高揚していた。ここに存在していると実感した。
けど、それは親に構ってほしいだけの幼い発想だ。あの頃と今の自分は違う────そう思うも、腰が痛すぎてまともに考えることができない。
父の大きな腕に抱き締められると逃げられない気分になる。あるはずのない赤い縄が、囲うように天井から垂れ下がっている。その隙間から逃げないといけないのに、父の身体の一部になったような錯覚を覚えた。
無理やり解した肉が爛れる。
本当に、何でまた戻ってきてしまったんだろう。
自由になりたかった……はずなのに。
「兄さんも、気持ちよくなってる」
十波が呟いた。自身の腹に当たる兄のペニスを摘みながら、滴り落ちる液体を目で追う。
「一威は縛られたいんだ。捕まえてほしいから逃げるし、お仕置きしてほしいから悪戯する。本当にしょうがない、悪い子。……だけど、可愛い子だ」
父に腰を突かれる度、一威は壊れた人形のようにぎこちない跳ね方をした。それでも性器は萎えることなく、ずっと真上を向いている。
「悪い子なのに可愛い。どうして?」
「手のかかる子ほど……ってやつだ。お前も子どもができたら分かるよ」
間に居る一威を置いて、怜次と十波は言葉を投げ合った。肌のぶつかる音と一威の喘ぎ声は連動していた。
十波は手を伸ばす。それは一番上に被さる父の肩に届いた。しかし一威の精液でぬれていた為、滑って離れてしまう。
「十波、お兄ちゃんが戻って来て良かったな」
父がそう言い放ったとき、十波はわずかに微笑んだ。
赤い境界線が明確に見えた。
父に命を吹き込まれた作品。それが自分と弟。完成品として出来上がれば、後は壊される運命。……だったのか。
気が狂うほど交わっている。昨日も今日も、一威は十波を抱き、そして抱かれていた。そんな彼らをキャンバスに描く、怜次。三人だけが暗い密室で息をしている。
ここ数日服を着ていないせいで、十波も一威も身体は冷えきっていた。しかし腰を動けばすぐ熱くなる。汗も吹き出る。互いの熱を奪い合う為に交わった。
「兄さん、下生えるの早いね。この前剃ったばかりなのに」
「んっ」
十波が一威の股を指でなぞる。数日前に剃毛したそこは、もう新たなうぶ毛が覗いていた。
そこを丁寧に、愛おしそうに擦る。十波は何故かまったく生える気配がなかった。整容している様子など見られないのに、髪も伸びないし爪も伸びない。成長することを諦めたような、時が止まった少年だった。
「兄さん。父さん、今日は何しろって言うのかな?」
父が家を空けている間、アトリエで二人は床に寝っ転がっていた。陽の光なんてしばらく浴びてない。ベッド脇にあるライトの曖昧な発光だけじゃとても全ては照らしきれなかった。
「さあね。まぁ何でも、父さんが悦ぶなら良いんじゃない?」
「そう?……そうだっけ」
いつしか、その心も塗り潰されてしまったのかもしれない。十波は感動する心を失った。何をしても「気持ちいい」とは言わない。以前なら「父さん父さん」って犬のように尻尾を振っていたのに、今は父が帰ってきても義務的に身体を起こすだけだ。
彼は確かに生きてるけど、もはや死んでるようなものだった。
こんな……こんなものが幸せだと言うのなら、言う奴がいるとしたら、そいつはふざけてる。
「絵を……」
一威は渇いた声で呟いた。
「もう一回、全部めちゃくちゃにしよう」
十波は不思議そうに首を傾げたけど、ゆっくり起きて台所へ向かった。目当てのものはすぐに見つかった。煙草を吸わない父だけど、蝋燭に火を灯す際は便利なライターを使う。まだ使えることを確認した後、自分達が描かれた絵に火を付けた。
ゆらゆらと、初めは絵の隅で揺れているだけだった炎が黒く燃え広がっていく。久しぶりに嗅いだ焦げ臭い匂いに眉を顰めた。
「兄さん、何してんだよ!」
部屋中に置いてある絵画に火が燃え移る。見たことのない景色だったけど、きっと今まで見たどんなものより美しく思えた。
さっきまで死んだような顔をしていた十波だって、命が灯ったように声を張り上げている。これだけで意味はあった。……やる価値はあったと思う。
「こんなことして、お父さんが帰って来たら……」
「悦ぶんじゃない?こんな悪いことする子ども中々いないだろ。でも今度こそ、終わるよ……」
黒煙が立ち上る。小さなアトリエはあっという間に炎に包まれた。煙を吸わないよう、今さら息を止めても仕方ない。
「どうする?」
「どうするって、何が」
「生きるか死ぬか」
こんな究極の選択を弟に突き付けるなんて、自分も相当酷い。こんな悪い兄は中々いない。
「早く。もう時間無いよ」
死の淵のぎりぎりに追い込んでおきながら、希望の糸を垂らしている感覚。父よりずっと悪い人間、だけど。
片方が助かるよりは、どっちも助かった方がいい。片方が死ぬよりは、どっちも死んだ方がいい。それが一番の、父との決別だと思う。俺達兄弟の。
「……ここにいる」
死んだように止まっている瞬間が一番、生きている。
いつかの日、そう思ったことを十波は思い出していた。
薄汚れた眼帯に手を添える。燃え盛る炎の中で蘇ったのは、決して素敵とはいえない家庭。素敵とはいえない人生。父以外誰とも繋がりを持たなかった、自分が決めた、惨めな人生。
父を想う心が死んだのなら、今も生きてる意味がない。
「ここにいるよ。昔と違って暖かいし……初めて、兄さんと過ごせた場所だから」
「……そ」
二人の真後ろで揺れる炎が天井まで届いた時、視界は奪われた。フラッシュオーバー後の熱風が部屋に吹き荒れる。瞬く間に闇は広がり、木造のアトリエは炎に包まれた。
寝静まった夜のこと。ひっそりと佇む小さな家は時間と共に焼け落ち、崩れていった。
飛び散る灰と、叫び声。火の勢いは増していく。煙に気付いた人、火事の通報をする人、距離をとって観察する人、興味深そうにカメラを掲げる人。思い思いの人が集まり、消防隊が到着して完全に消火されたのは何時間も経過した後だった。
眠れない人だけがその場に佇み、事態を見守る。全て終わって落着したころ、空が白みだした。昨晩のことなど何も無かったように、眩い朝日が顔を覗かせる。
思ってるよりは多くの人に発信されない。だが思ってるよりは多くの人を巻き込んだ。小さな燻りから始まった、大きな火災。人知れない想い。
「火、消えて良かったね。原因は何だって?」
「警察がまだ調べてる最中みたいだけど、一番可能性あるのは放火らしいよ」
「うわ、怖いなー」
日本の火事って、放火が一番多いからね。事件だよ、事件。ここはド田舎だし、平和だと思ったんだけどなぁ……。
最も炎が上がっていた時間と対照的に、疎らな人影。去っていく足音。人々の高まった想いも鎮火されていた。
後は野次馬根性だ。死人は?怪我人は?ネットに上がる記事よりいち早く情報を手に入れたい声で溢れた。
「あ、なーんだ。巻き込まれた人いないんだ」
誰かが呟いた。全て焼け落ち、煤になったキャンバスを眺めながら。
「うん、良かったね。遺体も、ひとりも見つかってないって」