· 

3〈八〉

執筆:八束さん

 

 

 

『兄さん、助けて、お願い……助けて、助けてぇ……

 


 弟からの着信を、初めは無視してしまおうかと思った。でも何となく嫌な予感がして出てみれば、案の定だ。
 お願い、早く来て、助けて、助けて、と、必死に訴えかけてくる弟。


 何を今さら。だから言ったじゃないか……


 でも、今さら頼ってくんな、自分で何とかしろと突き放してしまえるかと言ったら、そうは割り切れない。鬱陶しい、面倒くさい奴だとしても、たったひとりの弟には違いない。たったひとりの、血の繋がった……

 三年ぶりに戻った実家は、まるで長年ひとが住んでいない家のように、荒んでいた。
 ものがひっくり返っているわけでも、埃がたまっているわけでもない。でも、たとえば廊下の曲がり角や、階段の段差や、椅子の下……そういったところの影が、濃くなっているような感じがした。空気はどんよりと重く、窓を開け放ったとしても入れ替わることのない空気。ただそこにいるだけで、ゆっくりと膿み、爛れていくみたいな。


 こんなところに、十波を置いてきてしまったのか。
今になって、ぞっとした。

 二度と戻りたくなかったこんな家。でも結局戻ってきてしまったのは、弟のことを思いやったからというより、罪悪感からだ。
 ……いや、別に、自分は何も悪いことはしていない。大学に受かったから。受かった大学が家からは通えないところだったから、だからひとり暮らしを始めた。だからこの家を出た。それだけだ。罪悪感から、というより、もしかしたら罪悪感なんて感じる必要はないと確証を得るために、戻ってきたのかもしれない。
「兄さん……兄さん、兄さん……!」
 顔を合わせるなり十波は、ご主人様を見つけた犬さながらに駆け寄って、抱きついてきた。
 素肌にシーツを巻きつけただけの姿。真冬なのに裸足。左目には眼帯。あまりにも異様な姿に、嫌な予感しかしない。でも一番違和感を覚えたのは、その格好ではなく、表情や声音だ。これが……本当に……十波……
 いじめられていたか何だか知らないけど、不登校になって引きこもっていた弟は、こんな風になりふりかまわず、ひとに訴えかけることができるようなタイプじゃなかったはずだ。


 背は伸び、体つきは男らしくなっていた。でもその表情は、声の発し方は、まるで……


「十波……こ、れは一体……
「兄さん、よかった、本当に戻ってきてくれたんだ。嬉しい……
 シーツがはらりと床に落ちる。腕や脚……いたるところに巻かれた包帯。それでも隠しきれないほどの青痣。
 傷だらけの身体の中で唯一そこだけ汚されていない……いや、不自然なほどにつるつると、そこだけ成長が止まったみたいな陰部。


「十波、こんな、ひどい……誰に、どうしてこんな……


 うっかり転んでできた、というような傷ではないことは明らかだ。そしてこれを……誰にやられたか、ということも。
 誰に、なんて、馬鹿なことを訊いているのは分かっていた。そういえば昔、同じようなことを訊かれた。誰に……そんなの、ひとりしかいない。分かりきっているのに、でもはっきり口にするのを躊躇ってしまう。父とはそういう存在だった。
「駄目だ……こんなところにずっといたら……こんな家、早く出ないと」
 一刻も早く連れ出さなければならないと思った。けれど十波は、きょとんとしている。
「駄目って……どうして……?」
「どうして、って、お前ずーっと、こんなことされ続けてていいのかよ! 逃げよう、早く」
「逃げる、って……どこへ……?」
「どこ、って……。そんなのは後から考えたらいい。俺のとこでも、どこでも……とにかくここにいちゃ駄目だ」
「嫌だ」
……は? 何言ってるんだ」
「兄さんこそ……どうしてそんなこと言うの。助けに来てくれたんじゃないの」
「そうだよ、だから……
「悪いのは俺なんだよ」
「十波?」
「俺が悪いことをしたから、だから父さんが怒ったの。俺が悪いんだ、全部……
 袖をぎゅっとつかまれる。助けを求めて……いや、本当にそうか?
「悪いことをしたらおしおきされる。それは当然なんだから、だからいいんだ。痛いこともつらいことも恥ずかしいことも、父さんにされるなら、何だっていい。でも……嫌なの。父さんに捨てられちゃうのは嫌……。頑張ったんだ、俺、兄さんの代わりに……俺が壊した、兄さんの代わりにならなくちゃ、って……。でも最近全然、何をやっても駄目で……。分、かるんだ……父さんの目を見てたら。父さんは何も言わないけど、期待に応えられてないんだろうな、ってことは……。このままじゃ本当に捨てられちゃう。でも、でも……父さんの望むものを見せられたら、これからもずっと愛してくれるって。だから、ねえ、協力してよ、兄さん。助けて。兄さんしか頼れるひとがいないんだよ」

 父さんの望むもの。
 これが?
 もう二度と戻るものかと誓ったはずだった。家……そして……このアトリエに。
 もう二度と会うことはないはずだった。
 三年ぶりに会う父。
 十波を見たときは、確かに三年の歳月を感じた。でも父を見ていると、三年前に戻ったかのように錯覚する。
 正しいことを言ったはずだった。
 十波をこんなにしてあんたそれでも親かとか、ちゃんと学校には行かせているのかとか、十波はあんたの玩具じゃないとか……
 でもどんな言葉を叩きつけてやっても、父はちっとも表情を変えなかった。変えないどころか、「これは十波が望んでいることなんだ」だなんていけしゃあしゃあと。でも、そんな父と相対していると、逆にこっちが間違っているような気にさせられるから不思議だった。
 

 法律も常識も倫理も通用しない世界。
 わけが分からないまま今、十波にフェラされている。
 二度と足を踏み入れるつもりのなかったアトリエ。二度と座るつもりのなかったソファ。二度と会うはずのなかった父の前で。
 まるであの頃に戻ってしまったみたいな……いや、あの頃に戻って、今よりさらに最悪な未来を選択し直そうとしているみたいな。
「十波は本当にそれが好きだな」
「うん、好き、おちんちん好き」
 嫌だ。気持ち悪い。こんなのおかしい。間違ってる。そう思うのに、刺激されればそこは簡単に反応してしまう。
 一旦口を離すと、十波は上目遣いに見て、
「父さんね、俺が別の男に犯されているところが見たいんだって」
 言うや否や、向かい合って跨がる形で腰を沈めてきた。
……っ、は、あ……っ」
 弟のものとは思えない、思いたくない、甘い声が降ってくる。ずぶずぶと飲み込まれていく。分かりたくないのに分かってしまう。男を受け入れるために調教された穴だということが。
「は……あっ……あああっ」
 奥まで沈めきった途端、十波の先端からぴゅくっ、と、透明の雫が飛んだ。内腿がぶるぶる震えている。まさか……
「十波、イったね」
 思っていたのと同じことを先に父に言われた。十波は「う…………」と、肯定とも否定ともつかない呻きを上げている。
「後ろに咥え込めるなら何だっていいんだな」
「違う……っ、違……
「違わないだろ。すぐイって。それでもまだ足りないみたいに涎をだらだら零して」
「あ……
 その言葉に反応するように、さわってもいない前がぴくぴく痙攣している。先端で留まっていた雫がとうとう堪えきれず、一威の腹まで垂れた。
「駄目じゃないか、お兄ちゃんの身体をよごしちゃ」
「あ、あ……
 十波は父に背を向けている。父に十波の様子が分かるはずはない。でも父は、本当に見えているみたいに言う。十波もまるで、本当に父に見られているかのように、羞恥に身体を震わせている。
「ごめんなさい……ごめんなさい、ごめんなさい……っ」
 ごめんなさい、と言いながら、それでも十波の勃起は収まらなかった。ごめんなさい、という言葉そのものに酔いしれているようにも見えてくる。
「そう言いながらまたすぐに腰を振って」
「ごめんなさい、でも、父さんに見られて……見て、もらえてる、って思うと、止まらなくて……っ」
「一威」
 まさか呼ばれると思わなかったから、どきりとした。十波の肩越しに、父と目が合う。目が……


 ああ、駄目だ……
 この目を見てしまっては駄目だ。
 一度捕まったら最後、二度と逸らすことができない。その場に縫い止めるだけでなく、過去にまで引きずり込もうとするほどの力。
「縛ってやるんだ」
 十波の腕から解けた包帯。それで十波のペニスを縛れと父は言う。冗談じゃない。そんなことできるかと睨めつけたが、そんな一威の殺気をいなすように父はふっと笑った。
「ならお前は何のためにここに戻ってきたんだ」
 

 分かっているんだぞ、と、語る目。
 画家だからか。その観察力で、ひとの心まで描き出そうとしてくる。
 この目に見られてしまったからだ。この目に見られてしまったから、だから自分は道を誤った。自分が悪いんじゃない。この目に操られてしまったから。


『その』本を見てしまったのは、小学生になったばかりの頃だったと思う。小さい頃はよく、アトリエに忍び込んでいたずらしていた。十波と違って、絵にはまったく興味がなかった。辛気くさい絵ばかり生み出す父が気持ち悪くて、キャンバスに向かう父の丸まった背中を、何度蹴っ飛ばしてやりたいと思ったか分からない。実際、蹴っ飛ばしたこともあった。絵の具を隠したり、父が出て行った一瞬の隙をついて、絵に変な髭を付け足したりしたこともあった。そんないたずらは、本当は、誤魔化すためだった。アトリエにあった一冊の緊縛写真集。それをこっそり見ていることを悟られないために。
 緊縛、という文字は、その頃読めなかったけれど、いけないもの、子供が見ちゃいけないものだということはすぐに分かった。見て、その上……
 こんな風にされたい、なんて思ってしまうことも。
 父にバレて、興味があるんだろ、こうされたかったんだろ、と囁かれても、ずっと首を横に振り続けた。それを嬉々として受け入れてしまったら、自分はいよいよ、本格的に駄目になってしまう気がした。でも父のやり口は巧妙で、だったら気持ちよくなんてなりっこないよな、と、ペニスを縛った。


 そのときの記憶が甦る。


 でも、抗えない。


 早く楽になりたかった。父の興味が弟に逸れてくれて、正直ほっとした。幸い弟にはひどいことはしていないようだし、何がいいのか分からないが、弟もそんな父を慕っている。引きこもりの陰キャ同士、相性がいいんだろう。そう思うことで、罪悪感を薄めようとした。どう言い訳しても結局、弟を身代わりにして逃げ出したということには変わりないのに。


 でも、あのままでずっといたら、きっと壊れてしまっていた。父の異常な言動が耐えられなかったというより、矛盾する自分の心が耐えられなかったのだ。こんなことは駄目だという理性と、もう溺れきってしまいたいという本能に引き裂かれて。
「兄さん、俺、分かったんだ」
 十波の反応を窺いながら包帯を巻いていると、十波が耳元で囁いてきた。
「兄さん、俺がアトリエをメチャクチャにしたとき、俺のこと庇ってくれただろ。どうしてか分からなかったんだ。兄さん、俺のこと嫌いなはずなのに、って……。でもようやく分かったよ。兄さん、悪い子になって、父さんにおしおきされたかったんだね」
「は……?」
「怖かった、父さんに痛めつけられるのは。でもすっごく……気持ちよかった。だから俺、どんどん悪い子になっていっちゃった」
 狂ってる。
 シンプルにそう、思った。


 自分は間違っているだろうか。十波があまりにも当然のように、とち狂ったことを口にするから、わけが分からなくなる。
 痛めつけられたかった? 違う。あのとき、本当に、何もかも終わらせてやろうと思ったんだ。
 メチャクチャになったアトリエで、でも父は何故か平然としていた。「ざまあねえな」と言うと父は、「下は上を見本にして育つからね」と意味ありげに言った。父はとっくに、十波のしたことに気づいていた。「でもまあいいさ。なくなったらまた、描けばいい」


 そうして父は当然のようにまた一威を縛り始めた。でもどれだけきつく縛られても、嬲られても、身体は少しも兆さなかった。父は次第に、いらだちを露わにし始めた。乱暴に絵筆を置いたタイミングで、言ってやった。「俺はもう、父さんの求めるモデルにはなれないよ」
 十波が荒らした……それ以上に激しく、父さんはアトリエをメチャクチャにした。切り裂かれたキャンバス、飛び散った絵の具、カランと音を立てて跳ねたペインティングナイフ……。直接手は上げられなかったけれど、縛られていたからよけられなくて、倒れてきたイーゼルの角がモロに顔に当たった。


「なくなったら、代わりを探せばいいじゃないか」


 勝ち誇ったように言ったと思う。
「父さん、あれだけ十波を見てて分かんないの? こんなことしたのも、父さんの関心を惹きたいからさ。十波は父さんに『縛られたがって』るよ。俺なんかより、ずっと」
 何てことを言ったんだろう。
 あのとき、思いつきのままに言ったことが、こんなことになるなんて。自分が逃げたい一心で。
 確かにほんの少しの間、十波につらい思いをさせるかもしれない。でも十波だって成長する。いつまでも非力な子供のままじゃない。成長したら流石にこの異常な状況にも気づくだろうし、自力で逃げ出すこともできるだろう。そんな風に楽観的に考えて……


 でも十波は自分と違って、狭い世界しか知らなかった。外の世界を知る機会がなかった。そんな状態でどうやって、逃げ出すことができるんだ。父以外を知らないのに。
「十波、自分ばっかり気持ちよくなってたら駄目だろ。お兄ちゃんも気持ちよくしてやらないと」
「う……
 父の言葉に従順に、十波は腰を振り始める。でも力が入らないのか、快感を生み出すには程遠い動きだ。じれったく……というよりは、そんな十波が哀れに見えてきて、ソファに押し倒し、がんがん奥を打ちつけてやった。
「あっ……ああっ、に、いさん……っ、は、げし……激しいよ……っ」
 自分がとっととナカに出してやったら、この茶番は終わるんだろう。でも十波のナカは何だかぼんやりしていて、激しく出し入れすればするほど、快感がするりと逃げていく感じがした。
 真っ白な包帯と対照的に真っ赤に腫れ上がった十波のペニス。あれほどの快感はまだ自分の中にはない、と一威は思う。するとまた唐突に、父が口をひらいた。
「一威、首、絞めてやって」
「な……
 何を言い出すんだ。
「ユルいだろ、十波のナカ。ずっとひらきっぱなしだからな。すぐに飲み込めるのはいいんだが、そこからがつまらない。でも首を絞めてやったら、いい感じに締まる。十波もその方が嬉しいんだよな」
「う…………苦しいの、好き……だから……ねえ、早く……
 そう言って十波は、一威の両手を自分の首に誘導する。促されるまま、恐る恐る力を込める。指が、柔らかい皮膚に食い込んでいく。かはっ、と、一度、十波が咳き込む。それで怖くなって緩めると、「何をしている」と、目敏く父に叱責される。「もっとだ」
「でも……
 ひゅーひゅーと掠れた声。きゅう、と寄った眉。
「もっと」
 父の声に同調するように、十波の目も「もっと」と訴えかけてきている。ぐっ、と親指を沈めたそのとき、後ろがきゅう、と締まったのが分かった。
 口の端から泡を溢れさせながら、それでも十波は勃起し、後ろは、搾り取ろうとするみたいにぎゅうぎゅう締めつけてくる。
 こんなことを……ずっと……し続けてきたのか。この広い家で、父とふたりきりで。
 激しく上下する胸、波打つ腹、痛々しいほど張り詰めたペニス、父の……ぞっとするほど、冷たい視線。
 射精する瞬間、反射的に腰を引きそうになったところ、ぐっと腰に脚を絡められる。口をぱくぱくさせながら、声にならない声で、「出して」と訴えている。「出して、ナカに、奥に、いっぱい出して……! 兄さん」
「っ……
 こんなに気持ち悪い射精は初めてだった。本当はイったあとの余韻を楽しみたい。でも早く、別のイキモノのようにうねうねとうねる場所から、引き抜きたくてしようがなかった。気持ち悪い。理解できない。快感ではなく、苦痛で絶頂を迎えている身体が、弟のものだなんて信じられない。
 手を離すと、十波は激しく咳き込んだ。息はなかなか整わない。けれどそんな中、十波は必死に父の方に手を伸ばしている。
「と、うさん……父さん……
「よかったな、いっぱい出してもらえて」
「父さん……
「何だ」
「父さん…………綺麗だった……?」
 一瞬の沈黙。
 父に向かって伸ばした手が、ぶるぶる震えている。
「俺、綺麗だった……?」
「ああ、綺麗だったよ」
 けれど父はスツールに腰掛けたまま、微動だにしない。
 ふれられてもいないのに、でも十波は嬉しそうに身体を震わせている。
「お前はそうやって、苦しんでいるときが一番、綺麗」
 父がそう言った瞬間、十波が見せた笑顔。朗らかな、花の咲いたような……と形容できる、まばゆい笑顔。それは、首を絞められ、尻の穴に精液を注がれて悦んでいるような奴が見せる表情じゃなかった。
 父と弟。ふたりにしか分からない空気が流れているのが分かる。
 ああ……弟は、『向こう側』へ行ってしまったんだ。
 理性なんてとっくに切り離して、本能だけの世界へ。


 何故だろう。
 そんな弟を少しだけ……

 


 羨ましく思った。