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2〈七〉

執筆:七賀

 

 

 

息が止まった。


兄の裸を見たことは何回もある。もうずっと昔、両親が忙しいときは幼い十波を風呂に入れるのが一威の役割だった。
もちろん嫌々だったと思う。裸になって、狭い空間で二人きりになっても会話なんてない。兄は抑揚のない声で「お湯かけるぞ」、「目、瞑って」と繰り返し淡々と動いていた。
だから当然、勃起した姿なんて見たことなかった。幼いときに見たものとは全く違う。色も形も大きさも。あんな風に上を向いて、ビクビク脈を打ったりしてなかった。
どうしてあんな姿を晒しているのか分からない。兄はもちろん、父の真意も、後ろ姿から推し量ることはできなかった。

「綺麗だ、一威」

────
けど。廊下に漏れた声は正常な思考を踏みにじった。
自分は「綺麗」なんて一度も言われたことがない。
いつも着せ替え人形のように表情を作らされ、じっとさせられるだけだった。しかし父は兄を見てウットリとしている。兄は苦しそうに身を捩り、腰を度々上下に振っていた。
モデルがあんなに動いて良いんだろうか。分からないが、父は変わらない速さで筆を滑らしている。
父のキャンパスの、前。……そこは俺の居場所だったのに。泥水のように濁った感情を抱いていると、また父が兄に言葉を掛けた。
「この前、十波をモデルに描いていたんだ。そしたら急に顔を赤くして……可愛かったけど、一瞬お前に見えたよ。色気を吐き出してるような、男を魅了する顔……十波もどんどんお前に近付いていくな」
男を、魅了……。何?何の話をしてるんだ?
息が苦しくなって、さらに身を乗り出す。
「でも十波は、まだ幼いからな。顔も身体も」
父が筆を置き、席を立つ。そして大人しく脚を開いている兄の性器にむしゃぶりついた。
「あ、あぁっ! やめっ、やだ、父さん……っ!」
聞いたこともない、兄の甘えた声が部屋に響く。赤い縄を体中に巻き付け、暴れ叫ぶ姿は何か特別な生き物のように見えた。
父を満たす為に存在する生き物。そんなの、この世界で俺だけだと思っていた。
「父さん、父さん……っ」
いつも人を見下してる兄が、必死になって父を呼ぶ。腰を激しく振って白い飛沫を放つ。
おかしい。あれは兄じゃない。そう、なにか別の生き物……


何とかしなきゃ。
そう思ってからの行動は早かった。勇気があったからではなく、単に防衛反応で動いたんだ。兄が風呂に入ったタイミングを見計らい、脱衣室へ向かった。さも偶然鉢合わせたように。
「その痕、どうしたの?
シャワーを浴び、風呂から出てきた全裸の兄を見て驚く。……ふりをした。雪のような肌につけられた赤い痕。以前父のアトリエで見た、拘束の痕だ。
兄は顔を赤くして俺の肩を突き飛ばした。表情はあまり変わらないけど声が若干上擦ってる。
「お前には関係ないだろ。つうか勝手に入ってくんな!」
怒鳴り声を聞いてる間も彼の身体を観察する。縄の痕は内腿、鼠径部までしっかり残っている。でも性器はよく分からなかった。
やっと見つけた、完璧な兄の異常性。取り逃したくなかった。
「この前、すごい格好してたよね。縄で縛られてさ、お父さんの前で射精したでしょ」
兄を黙らせる最良の台詞。吐き出したら、胸につっかえていた残渣物が取れたみたいにスッキリした。
「俺は女のカッコして、父さんのモデルになったことがある。でも裸になったり、あんな風に恥ずかしく喚いたことないよ。ははっ……兄さんの方がよっぽど変じゃない?
ここぞとばかりに口調を強めて兄を責める。生まれて初めて兄を攻めている。それが自分でも信じられなかった。
一威は急に居心地悪そうに視線を外し、前を手で隠した。その素振りが十波の気を大きくさせる。
「ねえ、父さんに触られて気持ちよかった?
兄の、奥に隠れた性器を無遠慮に引っ張る。彼は声にならない声を上げて前のめりになった。
「バカ、離せよ!」
彼が暴れるから上下左右に、乱暴に扱いてやった。多分、本気で抵抗しようと思えば出来たはずだ。体格差では、十波の方がずっと兄に劣る。
しかし心にブレーキがかかっているのか、難なく事が運んだ。一威が床に座り込んだ時、足元には白い液体が点をつくって零れていた。
「すぐイクんだね……早漏れってやつ?」
精液でぬれた指を興味津々で眺める。兄は肩を揺らし、眼に涙を浮かべているながらこちらを睨んでいる。でも全然怖くなかった。いつもはあんなに怖くてビクビクしていたのに。
射精させると、勝った気になる。不思議と、兄の性器の下に視線が移った。
排泄をする為の入口。そこが今、何故か蠢いている。気になって指で押すと、ちょっとだけ奥に潜り込んだ。
「うあっ!やだ、やめろ……!」
それまでグッタリしていた兄が、魚のように跳ねる。驚いて指を抜いてしまったけど、自分が優位に立ってることを思い出してまた突っ込む。


そんなことを繰り返していると、また父のことが頭をよぎった。
兄は父と、こういう遊びもしたいたんだ。俺を除け者にして、二人きりで。
そう思うと駄目だった。無性に悔しくて悲しくて、全部壊して、叩きつけて、メチャクチャにしてやりたくなった。兄を散々喘がせた後、十波は父のアトリエへ向かった。
父は今日仕事があると言って、まだ家に帰ってない。怒り、劣等感といった負の感情が、絵の具のように混ざり合う。雑然と置かれた大量の画材を叩き落として、パネルを倒して、自分の絵も水を掛けて、兄の絵を探した。それは一番奥、布を被せて立て掛けられていた。
「これ……
赤い縄に縛られた少年のヌード。ここに描かれているのは間違いなく兄だ。配色にムラがあるから未完成のようだ。父が帰ってくる前に、こっそり自分の部屋へ持っていった。大きいから苦労したけど、クローゼットの一番奥に仕舞って隠した。
こんな事をしても何の意味もない。きっと自分が盗ったとバレるし、父はまた兄をモデルにするかもしれない。それでも、このアトリエに置いておきたくなかった。


あそこは自分の居場所だ。あそこだけが、自分が自分でいられた……存在を許された場所。
父の怜次が仕事から帰って来て、アトリエに向かう。十波はずっと自分の部屋に籠っていた。
自分で決めた事なのに、ずっとビクビクしていた。いつ、父がドアを開けて入ってくるのか。
俺がアトリエをめちゃくちゃにして、絵を持ち去ったことに気付くのか。兄がどう告げ口するかも分からない。さっきまでは何も怖くない、自分は正しいと思っていたのに、急に目が覚めて弱気になってしまった。
閉じこもってることが逆に怖くて、結局自分から部屋を出てリビングへ向かった。やはりそこには父が居て、独りで紅茶を飲んでいた。


「あぁ、十波。良かった、顔を出さないから調子でも悪いのかと思ってたんだ」
恐る恐る近付く。すると予想外に優しい声が返ってきた。何で怒らないんだろう。アトリエに向かったところは見ている。荒らされてる事も絶対気付いてるはずなのに、父はこちらを心配するだけで何も問い詰めてこない。
兄が何か言ったんだろうか。それとも父があえて黙っているのか……どちらにしても背筋が凍った。
面と向かって責められるより、知らぬふりをされる方が恐ろしい。二人して口合わせでもしてるならもっと耐え難い。
穏やかな父を残し、十波はその足で兄の部屋へ向かった。


浴室の出来事から既に四時間が経過している。


……兄さん?
三回ノックして扉を開けた。反応は無かったものの、中を覗くと兄がベッドに座っていた。返事ぐらいしてくれてもいいと思うけど、自分がした事を考えると当然の対応だ。諦めて数歩先へ進む。
しかし声を発することは出来なかった。掛けようと思った言葉ごと息を飲んだ。
兄の左頬が赤く腫れている。殴られた様な後……さっきまでは無かったはずだ。まさか。
「それ、殴られたの?……誰に?」
「誰に?ひとりしかいないだろ」
ようやく聞けた声は鉛のように重かった。もちろん、質問の答えは分かってる。
「父さんに?どうして」
「アトリエがメチャクチャに荒らされていたって。後、俺の絵が無いとかでブチ切れていてさ。それ全部俺がやったんだって言ったら、これだよ」
兄はおもむろに腰を持ち上げる。距離を詰められると改めて、身長の違いにゾクッとした。


「どうして……そんなこと言ったの」
まさか、自分を庇うため?……そんなはずない。兄は自分が憎いはずだ。それが分かってるから、次に告げられた台詞もさほど驚かずにすんだ。
「本当のことを言ったら、お前も同じ目に合うよ。俺みたいに殴られるだけならいいけど、愛想つかされて、もう必要とされないかもな。そしたらどうする?」
十波は口を噤む。確かにその通りだ。あの時は怒りに任せて好き放題やってしまったけど、落ち着いてから溢れるのは後悔ばかり。そして、父への恐怖。
殴られる恐怖……否、嫌われる恐怖。自分には父しかいない。父が居ない方がいい、なんて兄のように振る舞うことはできない。家しか居場所が無いのだから。
じゃあどうしたら……
「だからさ。黙っててやるから、今度からお前が俺の代わりをやれよ。親父の変態趣味に付き合って、たくさん絵描いてもらえ」
えっ、と情けない声が出てしまった。変わり映えしない、いつもの弱い自分が顔を出す。
「お前が楽に座ってモデルになってる間、俺はあいつの気持ち悪いプレイに付き合ってやってたんだよ。十波にはまだ早いとか色々言ってたけど、俺はお前の歳でああいう事されてたからな?まぁ顔とか体格とか、根本的に違ったからだろうけど」
それを聞いて、父が兄を「綺麗」と言っていたことを思い出した。そうだ、出せる色気が違うとか……自分は抽象的な容姿だから、少女の恰好をすることでしか期待に応えられない、……ということか。
それがこの前、初めてデッサン中に欲情してしまった。絶対にいけないことだと思っていたけど、あの時の父はいつになく自分を褒めた。良い表情だったと感心していた。それは、ほんの僅かでも自分が兄に似通った色気を出せたから。

 

「で、も……
「親父に褒められたいんだろ?なら好都合じゃん。俺は親父に嫌われて、お前が気に入られる。……オナニーなんか比べもんにならないぐらい気持ちいいこと、してもらえるけど?」
あぁ。後ろの……お尻のことを言ってんだろうか。確かに、ちょっとだけ……興味ある。
……分かった」
十波は頷いた。俯き、その顔は上げることはなかった。一威も満足そうに頷く。そして呟いた。


「俺が逃げた後は、逃げてもいいけど」

 



その言葉自体は気に留めることもなく、日々が過ぎた。絵を台無しにしたことは、余程父を怒らせたらしい。兄はしばらく雑な扱いをされていた。大事な話でもない限り、兄に話し掛けようとしない。まるでそこには居ないように振舞っていた。
そのぶん自分が必死にご機嫌とりをした。
「父さん、俺もっと違う恰好したい。ポーズとかも……
兄の約束を守る為、自分から懇願した。性を匂わせる言葉。眼、声、仕草。全部兄から教わった受け売りだけれど、父に効いた。俺が兄に似てきたと喜んでるのかもしれない。
「じゃあ、十波も次のステップに進もうか。……最初は痛くて辛いかもしれないけど、大丈夫?」
頷いた。本当は嫌だ。痛いのは大嫌い。心も体も、傷つけられることが何よりも恐ろしい。
だって、自分は「商品」に近い。綺麗な状態でいなきゃ、絵を描いてもらっても買ってもらえない。
扉が閉まる。
幕が下ろされる。
もう昔のように暖かい陽光は差し込まない。十波は夜にしかキャンバスの前に立たなくなった。


「あっ……あ、あ、ああぁあっ!」
視界が闇で埋め尽くされる。それを仕切るように、真っ赤な縄が張り巡らされている。十波は唾液を零しながら仰け反った。叫び過ぎて喉は張り裂けそうだ。後ろの穴に埋め込まれた硬い淫具が小刻みに揺れる。そのたびに腰も揺れ、前の反り返った性器も揺れる。
馬鹿になりそうだった。逃げられないように手足を縛られ、父のモデルになっている。たまに反動で上を向くと父の満足そうな顔が見えた。
「綺麗だよ、十波」
その一言を聞くために、自分は耐えた。三年だ。もう兄は家を出て一人暮らしをしている。自分は父と二人きり、家に閉じこもって毎晩快楽に堕ちていた。
この絵がお金になるなら、別に外へ出なくてもいい。加えて父も独り占めにできるなんて、こんな最高の環境はない。
そう思うのに、何故か心が焼け爛れる。擦れ過ぎて肌が焼けてしまったのかと思ったけど、胸のずっと奥がドロドロに融けていた。終わりのない快感が辛い。イッてるのにイけない。兄は、いつもこんな状態を我慢していたんだろうか。
もう感覚がない。腰を抜かしたようで、上げろと言われるけど床に座り込んでしまった。
父の無茶な要求が続く。もう精液なんて一滴も出ないのに、搾り取られる作業が朝まで続く。快感で死ぬかもしれないと本気で思った。
「父さん、もう無理……お願い、休ませて……!」
辛くなって音を上げることが多くなった。こういう時のお願いの仕方も、以前兄から聞いて分かっていた。
「父さんの、欲しいから……お尻に入れて……!」
脚を開いて、父の性器を強請る。そしたら父も責めたりはしない。優しく微笑んで頭を撫でてきた。
「十波はお兄ちゃんそっくりだな。腰の振り方も喘ぎ方も……そうそう、ペニスの大きさも。大きくなるにつれてそっくりだ」
あれから身長も伸びた自分は、兄と雰囲気が似てきた。身体のことは分からないけど、父がそう言うなら本当なのかもしれない。
「お兄ちゃんは、ここを擦られるのが大好きだったんだ」
父の太いモノがめり込んでくる。ズプズプという感覚。中を無理やり広げられる。背臥位で根元まで挿入された。父の亀頭が絶妙なカーブを擦る。十波は激しく暴れた。
「あぁっ、そこだめぇっ!」
苦しい。でも気持ちいい。ガンガンと突かれる度に獣のように叫んだ。
毎晩こうだ。この広い家で父と飽きもせずセックスする。むしろやり過ぎてアナルはずいぶんガバガバになったようだ。今じゃ準備に掛かる時間も短い。
「十波、可愛いよ……お前の身体全部、たまらない」
髪の毛を好きなように弄られる。尖った乳首をクリップで留められる。幼い少女のような、綺麗な股が好きたがらと言って、陰毛も全て剃られた。剥き出しになってるのは、真っ赤に腫れたペニスだけだ。これで少女だとか笑わせる。
「ああぁ、もうダメ、イク、イッちゃう!」
既にドライで何度もイッていた。女のオーガズムが続く状態は、快感というより地獄だった。早く解放されたくて必死に腰を振り、自らの性器を扱く。
絶頂に達するのは一瞬。一瞬の浮遊感を味わい、天に昇る心地で床に突っ伏す。
「はぁ、は……
十波は全身を痙攣させながら、果てたばかりのペニスを弄った。これにどれだけの価値があるだろう、と思う。絵に描かれた自分のペニスは、ただの赤い棒に見える。たまに白い線が引かれて、それが精液なのだと気付く。


「お父さん、俺……綺麗かな?」
腰を高く上げて白い蜜を垂らす、滑稽な姿。恐る恐る訊くと、父は笑って背中にキスをした。
「あぁ。十波は世界で一番綺麗だよ」
その言葉に安堵する。そんな馬鹿な、と思う自分と、あぁやっぱり、と思う自分。相反する二人の人間。きっと、前者が兄と同じ考えの自分だ。後者は現実から逃げ続け、父に甘えた自分。
性器の先端を床に擦り付け、這いつくばってまたイッた。もうこの部屋から出たくない。気持ちいいことしかシたくない。
オナニーとセックスしかシたくないんだ。他は怖い。人も、父すらも。絵の中の自分しか強気でいられなかった。


だけど、全てが壊れる日がやってきた。
年末だからと三年ぶりに兄が家に帰って来た。そして俺が出かけている間、部屋のクローゼットにある兄の絵を引っ張り出して父に見せたんだ。俺が隠し続けた秘密を、容赦なく暴いた。
何もかも、完膚なきまでに踏みにじった。


「見てよ、これ。父さんを盗られると思った十波が俺に妬いて、絵を隠したんだ。他の絵もメチャクチャにした……俺のことが気に入らなくて、父さんに気に入られたい一心でね」