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1〈八〉

執筆:八束さん

 

 

 

 初めは単なる小遣い稼ぎだった。
 じっとしているのは苦痛だったし、「いいよ」と言われても、何がいいのかさっぱり分からなかった。


 でも今は、切実な行為。


 死んだように止まっている瞬間が一番、生きている、と思える。

 物心ついた頃から、画家の父のモデルをしてきた。
 モデルを頼むとお金がかかる、と父は、お菓子や玩具で十波(となみ)をつった。
 遊びたい盛りの頃は苦痛だった。でも小学生に入った頃になると、それが一番の遊びになった。
 だって、外で一緒に遊ぶような友だちもいない。
 何も悪いことはしていないと思うのに、背が低いとか、声が小さいとか、運動神経が悪いとか、何か弱そうとか、そんな理由だけで、簡単にいじめのターゲットになった。中学になってもそれは続いた。学校では人間扱いされていない。でも唯一家では……父のアトリエでは、人間らしくいられる。人形みたいに横たわっているときが、一番。

 四つ上の兄・一威(かずい)は、十波と違って、勉強も運動もよくできた。生徒会の役員もやっていた。母は十波に何かあるたび、兄を引き合いに出した。「お兄ちゃんを見習いなさい」が母の口癖だった。
 そんな母は、十波が中学に上がる直前に交通事故で亡くなった。
 もちろん、悲しかった。
 でも、隣でわあわあ泣き崩れている兄を見たとき、その悲しみはすうっと薄れて、ざまあみろ、という思いに置き換えられていった。ざまあみろ。あんたを守ってくれる母はもう、いないんだ。
 でも自分には、父がいる。
 出棺の際、父はずっと手を握ってくれていた。そのぬくもりは今でもずっと覚えている。

 兄をモデルにしないのか、と、父に訊いたことがある。
 確か昔は兄もモデルをやっていた。そんな記憶があったから。
 父は、「十波の方が評判がいいんだ」とさらりと言った。そのひとことに、どれだけ心を震わせられたか分からない。
 先生も友だちも母も兄も、それまで誰も認めてなんてくれなかった。どこへ行っても、デキのいい兄の弟、でしかなかった。十波を十波として必要としてくれたのは、父だけだった。
「でもいつまでも……ってわけにはいかないよな。十波だって、他にやりたいこともあるだろうし、いつも付き合わせて申し訳ないと思ってる。嫌だったらいつでも言ってくれていいから」
 もし自分が嫌だったと言ったら、父は他のモデルを探すんだろうか。
 嫌だ、そんなの。
 ぶんぶん、と、もげそうなほどの勢いで頭を横に振った。
「嫌なんかじゃない、全然」
 そしてふと、思う。
 もしかしたら嫌になったのは父の方なんじゃないだろうか。十波ばかりをモデルにすることに飽きてきたんじゃないだろうか。
 一度そう思い始めると止まらなかった。じわじわと熱いものが目尻から零れる。駄目だ、こんなの、いきなり泣いたりして……絶対、変に思われる。
「やっぱり嫌だったんだよな、やめよう」と父は立ち上がりかける。泣くほど嫌だと思われたらしかった。
「違う!」
 父の服の袖をつかんで訴えた。
 いじめられていること。どこにも居場所がないこと。父の絵のモデルをしているときが一番本当の自分でいられるということ。……
 言っている途中で、抱きしめられた。じゃあずっとこうしていよう、という囁きが耳をくすぐる。ぞわ、と肌が粟立つ感覚。こんな感覚は初めてだった。流されてしまうのを耐えるように、ぎゅっと父の背中にしがみついた。
 そんな、家に引きこもってばかりいちゃ駄目よ、外で遊びなさい……と、母にはよく言われていた。でも父には一度も言われなかった。十波のしたいようにすればいい。本当の自分でいられるのなら、自由でいられるのなら、楽しいのなら、ずっとここにいればいい。ずっとここで……

 楽しいことを、一緒にしよう。

 本当の自分。
 風をはらむスカート。幾重にも重なるフリル。リボンのついたシューズ。ウィッグの長い、ふわふわした髪が頬をくすぐる感触……
 ゴスロリ、とか、耽美、とか。
 そういうのが好きなひとに父の絵はよく売れるらしい。何十万とか。
 自分の絵がよそのひとの手に渡る、というのは変な感覚がする。売り物になる、と思うとちょっと寂しい感じもする。だから描かれたあとのことは考えないようにしている。この瞬間を写し取ってほしい。自分が一番輝いている瞬間を閉じ込めてほしい。絵が完成すると、キャンバスの中に閉じ込められた自分はとてもきれいで、ああよかった、と思う反面、現実の自分はこんなに苦しいのに、絵の中の自分はどうしてこんな幸せそうなんだろう、と、猛烈に嫉妬してしまう。だから終わったらまたすぐ、次の絵を描いてほしくなる。現実の自分の時間を止めてほしくなる。
 ふわふわのスカートを胸元までたくしあげる。
 でもパンツは見えちゃいけないらしい。見えないけれど一応、女の子のパンツを履いている。そういう見えないところのこだわりが、芸術性を高める、らしい。履いているのか一瞬分からなくなる、薄いレースのパンツ。
 見えるか見えないかぎりぎりのところがいいらしい。よく分からない。加減が分からず、よく手の位置を直される。ここがいい、と父は満足げに言うけれど、いいときと悪いときとの違いがよく分からない。よく分からないまま、うっすらとした表情を作る。
 絵を描く父の姿を見るのが好きだ。でもふとしたときに目が合う瞬間があって、そうなると気まずいから、どこも、何も見ていない目をする。


 鉛筆の走る音、身じろいだときの衣摺れの音、微かに空調の音……
 ずっと同じ姿勢でいると疲れるだろうと休憩を取ってくれるけど、最近ではちょっと休もうと言われるたび、少し残念な気持ちになる。現実に連れ戻される感じ。
 ちり、と、イヤリングが鳴った。そんなつもりはなかったけれど首が少し動いていたみたいだ。父がめざとく気づいた気がする。疲れた? と言われるのが嫌で、慌てて何でもないフリをする。首筋を汗が流れた。それすらもしかしたら父の目には見えているんじゃないか。


 見られている。
 何だろう。変な感じ。
 いつも以上に、見られていることを意識する。シャッ、シャッ、と鉛筆の滑る音を聞いているとまるで、じかにふれられているような感じがしてくる。その音が、ふいに止まる。次、どこにふれられるのか……。思わず息を止めている。またふいに、始まる。ほっと息を吐き出す。
 父を盗み見る。今、父は自分の一体どこを見ているのだろう。どこを描いているのだろう。首筋? 髪の毛? 腰にかけてのライン? スカートを持ち上げる手? 指? それともその奥……
 身体が熱い。
 暑い、んじゃない、熱い。
 汗が滲む感じじゃない、身体の奥がむずむずして、何か込み上げてくる感じ。駄目だ、と思えば思うほど、熱は一点に集中していく。
「十波」
 父の呼びかけにハッとする。
「手、下がってる」
「あ、うん、ごめん……
 スカートを直そうと屈み込み……
 そこで初めて、自分に起きていた変化に気づいて愕然とする。
 勃起している。
 どうしよう。これ以上手を上げたら父にバレてしまうかもしれない。いや、フリルが多いからそこまで見えないだろうか。
 ふと、父が笑った気がした。


 どうして。
 今ここで、そんな表情をするんだろう。呼吸が荒くなってしまう。駄目だ、動いたら……
 でも自然と膝頭をこすり合わせてしまう。いや、それだけじゃ物足りない。もっと直接的な刺激が欲しい。また、父と目が合う。いや、父の目は……下腹部に固定されているような気がする。
 視線に焼かれる。
「いい顔」
「えっ」
「そんな表情、できるようになったんだ」
 どんな表情なのかは怖くて訊けなかった。
 心臓が、うるさい。
 もう前は、たぶん、ぐちょぐちょに濡れて、あともうちょっとでスカートにまで染みてきそうで怖い。だからそっとスカートを浮かせる。でもそうすると隠していたところが露わになってしまう。
 父の視線が、ちりちり、痛い。
 もう駄目だ。
 モデルになっているということも忘れて、ぎゅっと目をつむってしまった。
「やっぱり、そろそろ休憩しようか」
「う、うん……
 いつもは、平気、と答えているから変に思われたかもしれない。でもそんなことを考える余裕はなかった。
 父がどんな顔で自分を見ていたか、なんて……
 考える余裕はまったくなかった。

 高いヒールの靴を脱ぎ捨て、部屋に駆け込み、スカートを中途半端にたくし上げた格好で一心不乱にオナニーした。薄いショーツごとしごくと、信じられないほど気持ちよかった。こんなによごしてどうしようとか、考える余裕はまったくなかった。とにかく今、この熱を解き放ちたくて必死だった。
 身体をくの字に折り曲げ、吐精した。最後は床に広がったスカートに突っ伏していた。精液はこぼさなかったけれど、口の端から唾液がひとすじ、垂れて落ちた。

 洗面所で手を洗っていると、兄が高校から帰ってきた。
 どこもボロは出していないと思うのに、それでもバレているような気がしてしまう。
 鏡越しに目が合ったけれど、兄は何も言わず、フンと鼻で笑った。
 中学もロクに行けやしないなんて、と、兄が自分を馬鹿にしていることは知っている。そしておそらく、父のことも馬鹿にしている。少女趣味の、社会不適合者。あんな絵で稼いだカネなんて、きたないカネだ……。でもそのおかげで自分たちが生活できているというのも兄は分かっているから、表立っては反抗しない。しないけれど、大人になったら見ていろ、こんな家、早く出て行ってやるといった敵意は常にむき出しだった。
「痛ってえ」
 いきなり、背後で大きな声がした。
 うっかり落としてしまったイヤリングを、兄が素足で踏みつけてしまったらしい。
「あ、ご、ごめ……
「ったく、こんなもん見せんじゃねーよ、きめぇな」
 兄が蹴っ飛ばしたイヤリングが、壁にカツン、と当たった。

 


 そんな兄だから、『それ』は本当に兄なのか、初めは信じられなかった。
 ある夜。
 アトリエに明かりがついていたのを偶然見かけた。
 父は普段、夜は作業しない。昼の柔らかな日差しの中で描くのが好きだと言っていた。
 だから明かりを消し忘れたのだろうと思ったのだけど、どういうわけか、中からはひとの気配がする。
 そっと覗くと、キャンバスに向かっている父と……その真正面にいたのは……兄。
 えっ……兄が、どうして……
 モデルになるのを兄は嫌がっていたはずなのに……いや、問題はそこじゃなくて……
 それは一瞬、血だらけのように見えた。兄の身体に、赤い筋が幾重にも見えたからだ。でも違う。あれは血じゃない。

 あれは……縄だ。赤い縄が、兄の身体に巻きついている。
 拘束された全身。でも胸だけが激しく上下している。
 不意に父が立ち上がった。父の背によって隠されていた部分がさらされる。


 赤い縄で戒められた兄のペニスは勃起していた。