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十話

 

 

「もちろん分かってますよ。恒成さんはそう言わないといけない立場の人ですから」

樹崎はゾッとするほど整った笑みを浮かべた。見当違いな言葉から分かるように、こちらの意図は伝わってない。伝わってたとしても響いてないだろう。
「あれ。恒成さん、どこへ?
上着を羽織り、家の鍵を手に取った恒成を樹崎は不思議そうに見つめる。

「一季を捜しに行く。から、今日はもう帰ってね」





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暑い。

こんなに汗をかくまで走ったのはいつぶりだろう。多分高校の体育以来だ。それ以降は走る機会なんてまるで無かった。せいぜい約束の時間に送れそうな時、かっこ悪くない程度に小走りしたぐらい。
ていうか、全力で走ったって、注目はされても別にかっこ悪いわけじゃない。走るのは悪いことじゃない。それなのに何で……何を気にしてる?

俺は……

……はぁっ! はぁ、はっ、ふぅ……

マンションから一直線に走った夜の公園。一季はその中で前屈し、両膝に手をついた。
今までずっと息を止めていたんじゃないか。有り得ないけど、そう思うほど息苦しい。肺に穴が空きそう、脇腹が捻れそう。

胸が苦しい。取ることの出来ない針が貫通している。

わざわざ逃げ出すことなんてなかったのに。これじゃ樹崎の思うツボだ。
でもそんなことどうでもよかった。樹崎と、叔父と、同じ空間に居たくなかった。体を突き動かす原動力はそれだけで充分だったんだ。

樹崎の言葉を頭の中で反芻する。
君、恒成さんのことが好きなの? ”
重い碇に変わり、どす黒い心の海に沈む。

“……
俺達は身体の関係を持ってる。

いいや、これぐらい簡単に予想がつく。自分は叔父の全てを知ってるわけじゃない。今までどんな人と出会って、どんな風に過ごしてきたのか。分かるわけないんだから、真面目に受け止めて傷つく方が馬鹿馬鹿しい。
そう思ってるのに変だ。……まだ心臓がバクバク鳴ってる。焦燥、不安、混乱。これらの理由は分からないものの、感情の正体は察しがついてきた。悲しみでコーティングした怒りだ。行き場をなくして暴れ回って、自分の心を荒らしていく。

そういえば研修でも習ったじゃないか、怒りの対処法。今こそあれを実践して冷静になるべきだ。ええと、確か少しでもいいから目を閉じて……

「一季」

聞き慣れた声。大袈裟なぐらい背中を震わせてしまった。だってまさか、追いかけてくるとは思わなかったから。
「叔父さん」
一季の背後には息を切らした恒成がいた。服も乱れて、額も少し汗が浮かんでいる。長い付き合いだというのに初めて見る姿だった。

「何で……どうしたの? ……あぁ、買い物袋置いてきたから? あれは今日の夕飯作ろうと思ってたんだけど、やる気なくしちゃったから。好きに使って」
「いや……ごめん、家に帰ろう。心配しなくても樹崎は帰ったから」

叔父は直球だ。そのあけすけな返答が余計に心を掻き乱した。樹崎のことで混乱してると分かっているから、宥めるように話を続ける。

「樹崎は俺を好いてくれてるみたいだけど、明確な関係性は持ってない。あくまで他人だから、勘違いはしなくていい」

……
勘違い?
一瞬何のことか分からなかった。誰が、何を勘違いしてると言うのか。
けどすぐに思い至る。俺が、二人は付き合ってると。若しくはセフレのような関係だと、勘違いしてるって言いたいのか。

……
違う。そんなことは微塵も思ってない。信じてない、信じたくない。あのマイペースな叔父に限って、と首を横に振ってる。けど何の確証も無いから揺れている。樹崎はもちろん、口から出任せなんていくらでも出来るから。

「別に、何とも思ってませんよ。叔父さんは、あの人に付き纏われてるんでしょ?
「あぁ。じゃあ、」
「俺は叔父さんを信じます……けどさっきは、あそこにいちゃいけない気がした。俺がいる方が変っていうか、違和感があったから」

自分は一体何を言っているんだろう。
「何とも思ってない」なんて大嘘。めちゃくちゃ気にしてる、だから逃げ出したんだ。なのに認めたくなくて、しょうもない言葉を吐き出す。

「確かに、あの樹崎さんて人すごい堂々としてるし……叔父さんと並んでもお似合いですよね」
「一季!

黒い影、叔父の大きな掌が視界を覆う。一瞬殴られるのかと思って身体を震わせた。けど彼の手は頬にそっと触れるだけ。それが分かって少し恥ずかしくなった。

叔父は、これ以上何を言う気だろう。俯き黙っていると、慈しむように頭を撫でられた。

……ごめんね」

ごめん、と繰り返す。悲愴な声は、こっちの心まで暗くした。

分からないから尚さらかもしれない。何で謝る。いや、

……何に謝ってるんですか」