外へ出ると、もう日が沈みかけて空は真紫に染まっていた。
ずっと暗い屋内にいたせいか、時間感覚も少しぼけている。皐月は楽器ケースを肩に背負い、広いグラウンドを眺めた。辺りにはこれといって目立つ建物は見当たらず、この大きなホールだけがぼつんと建っている。やはり演奏会とかセミナーだとか、特別な用事が無ければ来ない場所だった。
演奏自体は無事に終わった。顧問は概ね満足している態度(表情でわかる)だったし、部長の泉名も珍しく笑顔でミーティングを締めくくった。今回の反省を次に繋げて、と言うのは毎度の事。
しかしもうここにいる全員が、次の本番のことを考えている。過去を振り返るよう注意するわりに、感傷に浸る時間は与えられない。忙しないが仕方ない。一年のスケジュールはすでに決まっているのだ。
後は夏の最後のコンクール、そして秋冬の定期演奏会、施設等のチャリティーコンサート、文化祭、それと……
いろいろ思い浮かべても、両手で数えられる程度だ。去年の、失敗してもまだ次がある、という余裕は無縁となってしまった。
「はい、じゃあこれでミーティングは終わります。おつかれさまでした」
部長の掛け声で部員達が一斉に頭を下げる。呆気ない。これでまた一つ、青春が終わった。
……なんて、自分と“彼”はまだまだこれから思い出をつくっていくつもりだけど。
「皐月……じゃない、紅本先輩。ラーメン食べに行きましょ♪」
「大した執念だなぁ、まったく」
部員が散り散りに解散する中、一番に自分のもとへやってきたのはやはり未早だ。
自由になったことが余程嬉しいのか、満面の笑みを浮かべている。
でも演奏中は彼も真剣に頑張っていたし、ここは彼の希望どおりラーメンを食べに行くことにした。適当に駅周辺をぶらつき、目に留まったラーメン屋に二人で入る。未早はメニューを見もせず、上機嫌でチャーシュー麵を注文した。
「先っ……じゃなかった。皐月、おつかれさまー!」
「おう、おつかれ」
頼んだコーラで乾杯する。でももう、二人は先輩後輩じゃない。人目を気にしなくていい場所に移れば、その瞬間から恋人同士だ。
「ねぇ、俺音程大丈夫だったでしょ?皐月の音聴いてたからさ」
「おー、えらいえらい。そんでお前を先導していた俺はもっとえらいな」
「そうですね~、ご立派な先輩様には頭が上がりません。……で、皐月。ご褒美は?」
コーラを一気飲みし、空のグラスを置く。ちょうど二人分のラーメンが運ばれてきた。
皐月はわりばしを取ると、未早に渡してから静かに呟いた。
「ご褒美ねぇ。何か言ってたな。でも冗談だと思って何にも考えてなかったよ」
「えぇー!じゃあご褒美関係なしにお願い。俺赤ちゃんプレイがしたい! 皐月にミルク飲ませたりとか、おしめ変えた……、いや、それは食事中にしちゃいけない話か」
「食事中だけじゃなくて一生しなくていい!大体何で俺がソッチなんだよ!普通逆だろ!俺が世話役なら、やってあげないこともないけど?」
「ほんとっ?じゃあそれでもいいや。俺が皐月に甘える役でいこう!」
案外、彼はあっさりその配役で納得した。でも赤ちゃんプレイって……高校生のカップルがやるにはちょっとアレじゃないかなぁ……。
げんなりするけど、結局恋人のわがままを聴いてしまう。変なごっこ遊びなんてしなくても、自分は充分未早に甘いと思う。
「それで?例えば何してほしいの?」
「ん~……」
彼はにやにやしながら天井を見上げていたが、急に真顔になってテーブルに頬杖をついた。そして周りを一回見回した後、自分のわりばしを皐月に手渡す。
「な、何?」
「やっぱりそんなマニアックなことは頼めないや。これで何かあ~ん、ってして」
未早が言うのは、これで物を食べさせろということらしい。でも麺は冷まさないと絶対火傷するし……、しょうがないから、無難そうなチャーシューを箸でつまんだ。
確かに、この行為ならせいぜいバカップル止まりだ。犯罪的要素は一切ない。それでも周りに客がいないことを確認してからお願いしてくんだから、計算高い恋人だ。
「そんじゃあ……はい、口開けて。あ~ん」
「んんっ!美味しい。とろけそう……肉の脂肪分が舌の上で絡まり合って、容赦なく口腔内を蹂躙していく。柔らかいそれが歯列をなぞって、熱に浮かされた思考を犯していく」
「気持ちの悪い食レポはやめろ!!」
「皐月の部屋にあるBL小説を朗読しただけだよぅ」
彼は箸を受け取るとそっぽを向いて麺をすすりだした。くそ、ほんと小憎らしい。
「今度は……もっとゆっくり、二人だけになれるところでやってやるから。外であんま煽るなよ」
「へぇ!それは楽しみ!やっぱり皐月は俺の百倍はエロいね!」
「はいはい。あとで覚えとけ」
こどもみたいに笑う彼を見ていると、結局呆れも怒りも吹っ飛んでしまう。こんなのがこの先も続くのかと思うと、ちょっと疲れるなぁ。
……でも。
「ソロを吹いてるときの先輩、かっこ良かったよ」
こっちを見向きもせずに彼は言う。とってつけたような台詞だ。そんなものに密かに喜んでしまう、自分は本当にしょうもない。
大好きな恋人はもちろん、やっぱりまだ“頼れる先輩”でいたい。とか思ってしまうのは、もうしょうがないってことにしよう。