· 

一瞬の奏楽⑴

 

 

「ラーメンが食べたい」

  

鼓膜に突き刺さる高音から、腹の底まで響く低音まで。多様な音階が響く防音室の隅に、力なく座り込む少年がいた。

 

彼は吹奏楽部に所属する七瀬未早。

趣味はオカルト研究、好物はラーメン、嫌いなものは非現実的なBL小説。 

そして現在、二つ歳上の先輩と付き合っている。その先輩は同じ部活、同じパートの為、関わる頻度は高い。今だって定期演奏会の本番を控え、ホールから少し離れた防音室で最後の音合わせをしている最中だ。

 

舞台裏に移動するまで後10分。この部屋を出たら、私語を話す生徒はいなくなる。自分の音、他人の音を聴けるこの時間こそ、最も神経を研ぎ澄まして、耳を澄ませなくてはならない。にも関わらず、未早はこの時間にまったく関係ない言葉を零していた。

 

「ラーメンが食べたいです。お腹にたまる極太麺とたっぷりのネギ、それから柔らかくて厚いチャーシューが乗った……そう、チャーシュー麺が食べたいです。紅本先輩、これ終わったらラーメン食べに行きましょ♪」

  

「…………未早」

 

そんな彼を静かに諭すのは、パートリーダーでもあり、恋人でもある少年。紅本皐月だ。

 「今だけは雑念を捨てろ。お前今日は全体的にピッチ高いんだから」

「はぁ……困りましたね、気分が上がると高くなっちゃうのかなぁ。あっ、先輩が後でご褒美くれるって言うならラーメンのことも一瞬で忘れられそうです」

未早は手に持っているトランペットに軽く息を吹き入れる。

 

皐月は彼の言う“ご褒美”の意味が分からず眉根を寄せた。恋人とはいえ、未早の脳内構造は未だに理解できない。くわえて含みのある笑みが不気味だ。嫌な予感がして後退ると、彼は低いトーンで囁いた。

 

「例えば、普段なら絶対やらない……エイジプレイとか! 皐月が赤ちゃん役をして俺に甘えたりするの、どう? 楽しそうじゃない?

「唐突すぎるし何も楽しくねえよ!!」

 

 

あまりにも卑猥な提案に、思わず大声を上げる。近くにいた生徒には聞こえてしまい、奇異な目で見られてしまった。皐月は慌てて咳払いし、ひとり楽しそうな未早を注意する。


「あのなぁ未早、時計を見ろ。もう本番5分前。いつもの茶番は許されないんだよ。しっかり音を合わせて、万全な状態で戻るんだ」

「万全な状態なんてあり得ませんよ。この会場のステージ暑すぎるし、楽器も熱を持っちゃうから音がズレちゃう。……まぁそれでも真面目に頑張るからさ。ご褒美、考えといてね」

 

未早がにっこり笑った直後、部長の泉名が手を叩いて全員の練習を中断させた。少し早いが、もう移動する気らしい。まぁなるべく舞台袖の雰囲気も味わっておくべきか。

皐月はため息を飲み込んで、部員達と場所を移動した。ちょうど一つ前の学校の吹奏楽部が演奏中で、力強い管楽器の音が聴こえる。

 

もう誰も口を開かない。舞台の大きい小さいは関係ない。ここでの本番は一度きりだ。

どんな舞台も、持てる力のすべてを出し切って悔いのない演奏をする。

例えどんなに嫌いな人間が隣にいたとしても、ひとたび客前に出たら頭の中をリセットしなくてはならない。それができる人間しか、本当の意味で調和はできない。独りよがりの演奏から生まれる不協和音になることだけは避けたかった。

 

楽器を始めてもう十年だ。だけど、高校生として舞台に立てるのはあと数回。

恋人とこの緊張を味わえるのも、あとわずかだ。そう思うと少しだけ寂しくなる。

私語は厳禁、と後輩達に言い聞かせてきたが……皐月は声を落とし、未早の隣へ移動した。

 

「大丈夫か?」 

「えぇ」

 

さっきまでのおどけた態度が嘘のように、彼は平然と答えた。しかし意味もなく楽器のピストンを叩いているところを見ると、多少は気持ちが揺れているのかもしれない。

それでいいと思った。こんなときまで慢心でいるような人間に今後の部活は任せられない。

 

「お前ならまぁ大丈夫だと思ってるけど。もしちょっとでも不安になったら、俺の音を聴け」

 

はっきりと告げる。内心は、苦笑していた。自分の音を聴けなんて、それこそ慢心に満ちた人間の吐く台詞だ。だけどこの時だけはかっこつけたかったのかもしれない。もし突っ込まれたら素直にそう言おうと思った。

 

しかし、目の前の彼は嬉しそうに微笑むだけ。

 

「もちろん。ウチのリーダー……頼りにしてるよ、紅本先輩」

 

まるで自分が絶対に音を外さないと信じ切ってるかのような目。

それこそあり得ないのに……彼も大概、自分を過大評価しているようだ、と皐月は思った。

 

それでもやはり嬉しくなるのは、恋人という特別な関係性のせいか。分からないが、今だけは思考を停止して落着に努める。今日の演奏が、最後の舞台のつもりで。

音が止み、舞台の照明が落ちて闇に包まれる。前の学校が退場していく様子を見守り、皐月は周りに目配せをしてから声をかけた。

 

「さ、俺達の番だ。行こう」

 

「はい!」

 

再び切り替わる眩しい照明で、目が痛くなる。光が強すぎて目の前の譜面も見づらい。そんなことにも、もう慣れてしまった。指揮者の指先を見つめ、息を吸う。

どこで動揺するかは、ここにいる仲間達にも分からない。でもそれが面白い。失敗はしたくないが、予期せぬハプニングというのは多かれ少なかれ必ず起きる。どんな強豪でも、100%満足のいく演奏なんて不可能に近いんだ。 

 

“彼”もそれを分かっている。だから何も言う必要はない。意識すべきは、自分が出せる最高の音を飛ばすことだけ。

 

指揮者の腕が弧を描くように上がる。全員が息を吸い込む音が重なる。長くて短い、音の世界が始まった。